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第六十話:最初のターゲット
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兄アルフォンスの失墜は、帝都の権力構造に静かだが確実な地殻変動をもたらした。これまで盤石と思われたヴェルヘイム公爵家の次期当主の派閥は大きく揺らぎ、多くの貴族が日和見を決め込んでいる。帝都の政治は一人の若き侯爵の登場によって、新たな局面へと移行しつつあった。
『北風商会』の地下室。アッシュは壁一面に貼られた貴族たちの相関図の前に立っていた。その隣にはセレスティアと改革派のリーダーであるキルヒアイスが、緊張した面持ちで控えている。
「アルフォンス兄上の派閥は、今や傷を負った獣だ」
アッシュは相関図に描かれたアルフォンスの肖像画を指でなぞった。
「だが、傷ついた獣ほど厄介なものはない。完全に牙を抜き息の根を止めるまで、決して油断はできない」
「では、次の一手は?」
キルヒアイスが固唾を飲んで尋ねた。彼の感情にはアッシュへの「期待」と共に、これから始まるであろう大きな戦いへの「緊張」が浮かんでいる。
アッシュはアルフォンスの肖像画から指を滑らせ、その隣にいる一人の肥え太った男の肖像画をトンと軽く叩いた。
「最初のターゲットはこいつだ。財務卿、オズワルド・フォン・ミュラー」
その名前にセレスティアは眉をひそめた。
「ミュラー財務卿……。アルフォンス卿の派閥の金庫番と噂される、強欲で腐敗した男ね。彼を狙うというの?」
「そうだ」
アッシュは頷いた。
「蛇を殺すならまず毒牙を抜くか、あるいはその腹を満たす糧を断つかだ。アルフォンス兄上の毒牙は今回の件でいくらか錆びついた。ならば次に狙うべきは、彼の派閥を経済的に支える大本。ミュラー財務卿の金庫だ」
アッシュの戦略は明確だった。ミュラー財務卿はアルフォンス派閥にとって生命線とも言える存在だ。彼が長年にわたって蓄えた不正な富が派閥の運営資金となり、多くの貴族を金で縛り付けている。彼を失脚させれば派閥は経済的に立ち行かなくなり、内部から崩壊を始めるだろう。
「それに」とアッシュは続けた。
「ミュラー財務卿は民衆からの評判がすこぶる悪い。重税を課し私腹を肥やす彼の悪評は帝都中に広まっている。彼を断罪すれば我々は民衆の支持をさらに得ることができる。改革を進める上で、民衆という名の追い風は何よりの力になる」
その冷徹であまりにも合理的な分析に、キルヒアイスは感嘆のため息を漏らした。
「……なるほど。ミュラー卿を討つことはアルフォンス派を弱体化させると同時に、我々の改革への支持基盤を固めることにも繋がるのですね」
「そういうことだ。一石二鳥、いや三鳥にもなる」
アッシュは二人の顔を見回した。
「だが、相手は長年帝国の財政を牛耳ってきた古狸だ。尻尾を掴むのは容易ではない。そこで君たちの力が必要になる」
アッシュの言葉に、セレスティアとキルヒアイスは表情を引き締めた。
「何でも言って。私にできることなら協力は惜しまないわ」
セレスティアの翡翠色の瞳には、腐敗した権力者への強い「敵意」が燃えていた。
「我々改革派も長年ミュラー卿の不正を調査してきました。ですが彼の権力の前では、決定的な証拠を掴むには至らず……」
キルヒアイスは悔しげに唇を噛んだ。
「君たちが持っている情報、その全てを俺に提供してほしい」
アッシュは机の上に白紙の羊皮紙を広げた。
「キルヒアイス卿。君は内務省の立場を利用して財務省内部の不審な金の流れを洗い出せ。公的な記録のほんの些細な矛盾でいい。セレスティア嬢、あなたには貴族社会でのミュラー卿の評判や彼が抱える個人的な弱み――例えば愛人や賭博癖といった情報を集めてもらう」
「分かったわ」
「お任せください」
「そして俺の情報網は、彼の裏の顔を暴く」
アッシュは地図上のいくつかの点を指し示した。
「ミュラー卿が経営に関わる商会、彼が頻繁に出入りする高級娼館、そして彼の私有地。それらの金の流れと人間関係を徹底的に洗う。表の情報と裏の情報。それらをパズルのように組み合わせれば、必ず彼の不正を示す『絵』が完成するはずだ」
アッシュの頭脳は巨大な情報処理装置のように、断片的な情報を統合し敵の弱点を特定するための最適な道筋を描き出していた。セレスティアとキルヒアイスは、その圧倒的な計画性の前にただ息を呑むばかりだった。
アッシュは部屋の隅に控えていたジョセフに声をかけた。
「ジョセフ。領地から呼び寄せた者たちに新たな任務を伝える。ターゲットは財務卿ミュラーだ。彼の全てを監視し報告せよ、と」
「畏まりました」
老執事は静かに、しかし力強く頷いた。
こうして、腐敗した財務卿を失脚させるための巨大な包囲網が形成され始めた。
アッシュの情報網が闇の中から、改革派が光の中から、そしてセレスティアが貴族社会の中から。三方向からの見えざる刃が、まだ何も知らずに贅沢な暮らしを謳歌している財務卿の喉元へと静かに迫っていく。
「さて」
アッシュは壁の相関図に描かれたミュラー財務卿の肖像画に、赤いインクで大きく×印をつけた。
「狩りの始まりだ」
その言葉は帝国への腐敗に対する宣戦布告だった。辺境の悪魔が仕掛ける最初の「大掃除」が、今、静かに幕を開けた。その先にどれほどの血が流れることになるのか、まだ誰も知らなかった。
『北風商会』の地下室。アッシュは壁一面に貼られた貴族たちの相関図の前に立っていた。その隣にはセレスティアと改革派のリーダーであるキルヒアイスが、緊張した面持ちで控えている。
「アルフォンス兄上の派閥は、今や傷を負った獣だ」
アッシュは相関図に描かれたアルフォンスの肖像画を指でなぞった。
「だが、傷ついた獣ほど厄介なものはない。完全に牙を抜き息の根を止めるまで、決して油断はできない」
「では、次の一手は?」
キルヒアイスが固唾を飲んで尋ねた。彼の感情にはアッシュへの「期待」と共に、これから始まるであろう大きな戦いへの「緊張」が浮かんでいる。
アッシュはアルフォンスの肖像画から指を滑らせ、その隣にいる一人の肥え太った男の肖像画をトンと軽く叩いた。
「最初のターゲットはこいつだ。財務卿、オズワルド・フォン・ミュラー」
その名前にセレスティアは眉をひそめた。
「ミュラー財務卿……。アルフォンス卿の派閥の金庫番と噂される、強欲で腐敗した男ね。彼を狙うというの?」
「そうだ」
アッシュは頷いた。
「蛇を殺すならまず毒牙を抜くか、あるいはその腹を満たす糧を断つかだ。アルフォンス兄上の毒牙は今回の件でいくらか錆びついた。ならば次に狙うべきは、彼の派閥を経済的に支える大本。ミュラー財務卿の金庫だ」
アッシュの戦略は明確だった。ミュラー財務卿はアルフォンス派閥にとって生命線とも言える存在だ。彼が長年にわたって蓄えた不正な富が派閥の運営資金となり、多くの貴族を金で縛り付けている。彼を失脚させれば派閥は経済的に立ち行かなくなり、内部から崩壊を始めるだろう。
「それに」とアッシュは続けた。
「ミュラー財務卿は民衆からの評判がすこぶる悪い。重税を課し私腹を肥やす彼の悪評は帝都中に広まっている。彼を断罪すれば我々は民衆の支持をさらに得ることができる。改革を進める上で、民衆という名の追い風は何よりの力になる」
その冷徹であまりにも合理的な分析に、キルヒアイスは感嘆のため息を漏らした。
「……なるほど。ミュラー卿を討つことはアルフォンス派を弱体化させると同時に、我々の改革への支持基盤を固めることにも繋がるのですね」
「そういうことだ。一石二鳥、いや三鳥にもなる」
アッシュは二人の顔を見回した。
「だが、相手は長年帝国の財政を牛耳ってきた古狸だ。尻尾を掴むのは容易ではない。そこで君たちの力が必要になる」
アッシュの言葉に、セレスティアとキルヒアイスは表情を引き締めた。
「何でも言って。私にできることなら協力は惜しまないわ」
セレスティアの翡翠色の瞳には、腐敗した権力者への強い「敵意」が燃えていた。
「我々改革派も長年ミュラー卿の不正を調査してきました。ですが彼の権力の前では、決定的な証拠を掴むには至らず……」
キルヒアイスは悔しげに唇を噛んだ。
「君たちが持っている情報、その全てを俺に提供してほしい」
アッシュは机の上に白紙の羊皮紙を広げた。
「キルヒアイス卿。君は内務省の立場を利用して財務省内部の不審な金の流れを洗い出せ。公的な記録のほんの些細な矛盾でいい。セレスティア嬢、あなたには貴族社会でのミュラー卿の評判や彼が抱える個人的な弱み――例えば愛人や賭博癖といった情報を集めてもらう」
「分かったわ」
「お任せください」
「そして俺の情報網は、彼の裏の顔を暴く」
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「ミュラー卿が経営に関わる商会、彼が頻繁に出入りする高級娼館、そして彼の私有地。それらの金の流れと人間関係を徹底的に洗う。表の情報と裏の情報。それらをパズルのように組み合わせれば、必ず彼の不正を示す『絵』が完成するはずだ」
アッシュの頭脳は巨大な情報処理装置のように、断片的な情報を統合し敵の弱点を特定するための最適な道筋を描き出していた。セレスティアとキルヒアイスは、その圧倒的な計画性の前にただ息を呑むばかりだった。
アッシュは部屋の隅に控えていたジョセフに声をかけた。
「ジョセフ。領地から呼び寄せた者たちに新たな任務を伝える。ターゲットは財務卿ミュラーだ。彼の全てを監視し報告せよ、と」
「畏まりました」
老執事は静かに、しかし力強く頷いた。
こうして、腐敗した財務卿を失脚させるための巨大な包囲網が形成され始めた。
アッシュの情報網が闇の中から、改革派が光の中から、そしてセレスティアが貴族社会の中から。三方向からの見えざる刃が、まだ何も知らずに贅沢な暮らしを謳歌している財務卿の喉元へと静かに迫っていく。
「さて」
アッシュは壁の相関図に描かれたミュラー財務卿の肖像画に、赤いインクで大きく×印をつけた。
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