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第五十九話:悪評の上書き
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アッシュが流した「悲劇の英雄」という物語は、帝都の民衆の心を完璧に掴んだ。彼に向けられる同情は以前の熱狂的な支持よりも遥かに深く、そして感情的なものだった。人々はアッシュをただの英雄としてではなく、巨大な権力に立ち向かう若き反逆者として自らを投影し始めたのだ。
この世論の変化は、アッシュにとって二つの大きな利益をもたらした。
一つは、彼の行動に対する一種の免罪符を手に入れたことだ。今後彼が多少強引な手段を取ったとしても、民衆はそれを「腐敗した貴族と戦うためだ」と好意的に解釈してくれるだろう。
そしてもう一つは、敵であるアルフォンス派の結束を内側から切り崩したことだ。
アルフォンスの派閥に属する貴族たちは、決して一枚岩ではない。ある者は家の利益のために、ある者はアルフォンスのカリスマに惹かれて、またある者はただ長いものに巻かれているだけだ。
そんな彼らにとって、自分たちのリーダーが「弟に嫉妬する器の小さい男」という烙印を押されたことは大きな動揺を生んだ。
「アルフォンス様のやり方は少々度が過ぎるのではないか?」
「民衆を敵に回してまで弟君を追い詰める意味があるのか?」
「我々まで同じように見られては敵わん」
アッシュの情報網は、アルフォ-ンス派の貴族たちが交わすそんな不満の声を次々と拾い上げていた。彼らの感情には「不信」「不安」といった亀裂が入り始めている。
アッシュはこの好機を逃さなかった。
彼は兄アルフォンスが仕掛けた罠を徹底的に利用し、自らを悲劇の英雄として演出するための次なる手を打った。
彼は改革派のキルヒアイスを通じて、皇帝に一つの嘆願書を提出した。
その内容は、表向きは非常に謙虚なものだった。
『陛下。この度、私に関する根も葉もない噂が帝都を騒がせておりますこと、誠に心苦しく思います。これらの噂が私の兄であるアルフォンスとの不和に起因するものであるならば、それは私の不徳の致すところ。これ以上我が家の内紛で帝国にご迷惑をおかけするわけには参りません。つきましては、私に与えられた侯爵位を返上し、再び辺境にて静かに暮らす許可をいただきたく、伏してお願い申し上げます』
それは全ての地位を捨てて身を引くという、悲壮な覚悟を示す嘆願書だった。
もちろん、アッシュにそんな気は毛頭ない。これは皇帝と世論を味方につけるための高度な政治的パフォーマンスだった。
この嘆願書は、皇帝アルノルト三世を大いに悩ませた。
(あの若造め……とんでもない手を打ってきたな)
皇帝はアッシュの真意を正確に理解していた。今この嘆願を受け入れれば、民衆は「皇帝は腐敗した兄の肩を持ち、国を救った英雄を見捨てた」と判断するだろう。皇帝への支持は失墜し、アルフォ-ンスへの非難はさらに高まる。
だが嘆願を却下すれば、それは皇帝が公式にアッシュを支持し、アルフォンスの非を認めたことになる。
どちらに転んでも、アッシュにとっては有利な状況だった。
皇帝は数日間の長考の末、後者を選んだ。彼はまだアッシュという駒を手放す気はなかった。
皇帝はアッシュを再び玉座の間に呼び出すと、直々にこう告げた。
「アッシュ侯爵。そなたの嘆願、確かに受け取った。だが朕はそれを許可するつもりはない」
皇帝はわざとらしく威厳のある声で言った。
「そなたは国を救った英雄である。そなたのような男を些細な家の事情で失うことは、帝国にとって大きな損失だ。アルフォンスとの問題は朕が責任を持って仲裁しよう。だからそなたは何も案ずることはない。これまで通り、帝国のためにその力を尽くせ」
この皇帝の言葉は、帝都中に公表された。
結果はアッシュの思い描いた通りだった。
民衆は皇帝の「温情」とアッシュの「無実」を確信した。アッシュの評判はもはや揺るぎないものとなる。
一方で、アルフォンスの立場は致命的なまでに悪化した。皇帝直々に弟との仲裁を言い渡される。それは彼が弟いじめをしていたと、暗に公式認定されたようなものだった。
彼の派閥からは日和見な貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように離れていった。彼らは沈みゆく船から逃げ出すネズミのように、アルフォンスを見限ったのだ。
ヴェルヘイム邸で、アルフォンスは自室で荒れ狂っていた。高価な調度品を叩き壊し、獣のような唸り声を上げる。
「アッシュ……アッシュ! なぜだ! なぜあの出来損ないが、俺の全てを奪っていく!」
彼の完璧な仮面は剥がれ落ち、そこには嫉妬と憎悪に歪んだ醜い素顔があるだけだった。
アッシュは、その報告を『北風商会』の地下室で聞きながら静かに紅茶を一口すすった。
「憐れだな、兄上。あんたは俺と戦っているつもりだったのだろうが……あんたが戦っていたのは、俺が作り出した『物語』の幻影でしかなかったんだ」
アッシュは兄の悪評を、自らを英雄に仕立て上げるためのより大きな物語で完璧に「上書き」した。兄の攻撃は全て燃料として吸収され、アッシュをさらに輝かせるための炎となった。
情報戦における完全な勝利。
だが、アッシュは決して満足していなかった。アルフォンス個人の失脚など、彼にとっては通過点に過ぎない。
彼の本当の目的は、アルフォンスを支え帝国の腐敗の温床となっている貴族たちの派閥そのものを根こそぎにすることだった。
アッシュは壁に貼られた相関図に再び向き直った。
彼の指は、震えるアルフォンスの肖像画の隣にあるある男の顔を、ゆっくりと、そして力強く指し示した。
「さて、兄上が無力化された今、いよいよ本丸を攻めるとしようか」
その指が指し示していたのは、夜会で特定した最初のターゲット。
肥え太った強欲な財務卿の肖-像画だった。
アッシュの復讐の刃は今その標的を変え、より深く帝国の闇の中枢へと向けられようとしていた。
この世論の変化は、アッシュにとって二つの大きな利益をもたらした。
一つは、彼の行動に対する一種の免罪符を手に入れたことだ。今後彼が多少強引な手段を取ったとしても、民衆はそれを「腐敗した貴族と戦うためだ」と好意的に解釈してくれるだろう。
そしてもう一つは、敵であるアルフォンス派の結束を内側から切り崩したことだ。
アルフォンスの派閥に属する貴族たちは、決して一枚岩ではない。ある者は家の利益のために、ある者はアルフォンスのカリスマに惹かれて、またある者はただ長いものに巻かれているだけだ。
そんな彼らにとって、自分たちのリーダーが「弟に嫉妬する器の小さい男」という烙印を押されたことは大きな動揺を生んだ。
「アルフォンス様のやり方は少々度が過ぎるのではないか?」
「民衆を敵に回してまで弟君を追い詰める意味があるのか?」
「我々まで同じように見られては敵わん」
アッシュの情報網は、アルフォ-ンス派の貴族たちが交わすそんな不満の声を次々と拾い上げていた。彼らの感情には「不信」「不安」といった亀裂が入り始めている。
アッシュはこの好機を逃さなかった。
彼は兄アルフォンスが仕掛けた罠を徹底的に利用し、自らを悲劇の英雄として演出するための次なる手を打った。
彼は改革派のキルヒアイスを通じて、皇帝に一つの嘆願書を提出した。
その内容は、表向きは非常に謙虚なものだった。
『陛下。この度、私に関する根も葉もない噂が帝都を騒がせておりますこと、誠に心苦しく思います。これらの噂が私の兄であるアルフォンスとの不和に起因するものであるならば、それは私の不徳の致すところ。これ以上我が家の内紛で帝国にご迷惑をおかけするわけには参りません。つきましては、私に与えられた侯爵位を返上し、再び辺境にて静かに暮らす許可をいただきたく、伏してお願い申し上げます』
それは全ての地位を捨てて身を引くという、悲壮な覚悟を示す嘆願書だった。
もちろん、アッシュにそんな気は毛頭ない。これは皇帝と世論を味方につけるための高度な政治的パフォーマンスだった。
この嘆願書は、皇帝アルノルト三世を大いに悩ませた。
(あの若造め……とんでもない手を打ってきたな)
皇帝はアッシュの真意を正確に理解していた。今この嘆願を受け入れれば、民衆は「皇帝は腐敗した兄の肩を持ち、国を救った英雄を見捨てた」と判断するだろう。皇帝への支持は失墜し、アルフォ-ンスへの非難はさらに高まる。
だが嘆願を却下すれば、それは皇帝が公式にアッシュを支持し、アルフォンスの非を認めたことになる。
どちらに転んでも、アッシュにとっては有利な状況だった。
皇帝は数日間の長考の末、後者を選んだ。彼はまだアッシュという駒を手放す気はなかった。
皇帝はアッシュを再び玉座の間に呼び出すと、直々にこう告げた。
「アッシュ侯爵。そなたの嘆願、確かに受け取った。だが朕はそれを許可するつもりはない」
皇帝はわざとらしく威厳のある声で言った。
「そなたは国を救った英雄である。そなたのような男を些細な家の事情で失うことは、帝国にとって大きな損失だ。アルフォンスとの問題は朕が責任を持って仲裁しよう。だからそなたは何も案ずることはない。これまで通り、帝国のためにその力を尽くせ」
この皇帝の言葉は、帝都中に公表された。
結果はアッシュの思い描いた通りだった。
民衆は皇帝の「温情」とアッシュの「無実」を確信した。アッシュの評判はもはや揺るぎないものとなる。
一方で、アルフォンスの立場は致命的なまでに悪化した。皇帝直々に弟との仲裁を言い渡される。それは彼が弟いじめをしていたと、暗に公式認定されたようなものだった。
彼の派閥からは日和見な貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように離れていった。彼らは沈みゆく船から逃げ出すネズミのように、アルフォンスを見限ったのだ。
ヴェルヘイム邸で、アルフォンスは自室で荒れ狂っていた。高価な調度品を叩き壊し、獣のような唸り声を上げる。
「アッシュ……アッシュ! なぜだ! なぜあの出来損ないが、俺の全てを奪っていく!」
彼の完璧な仮面は剥がれ落ち、そこには嫉妬と憎悪に歪んだ醜い素顔があるだけだった。
アッシュは、その報告を『北風商会』の地下室で聞きながら静かに紅茶を一口すすった。
「憐れだな、兄上。あんたは俺と戦っているつもりだったのだろうが……あんたが戦っていたのは、俺が作り出した『物語』の幻影でしかなかったんだ」
アッシュは兄の悪評を、自らを英雄に仕立て上げるためのより大きな物語で完璧に「上書き」した。兄の攻撃は全て燃料として吸収され、アッシュをさらに輝かせるための炎となった。
情報戦における完全な勝利。
だが、アッシュは決して満足していなかった。アルフォンス個人の失脚など、彼にとっては通過点に過ぎない。
彼の本当の目的は、アルフォンスを支え帝国の腐敗の温床となっている貴族たちの派閥そのものを根こそぎにすることだった。
アッシュは壁に貼られた相関図に再び向き直った。
彼の指は、震えるアルフォンスの肖像画の隣にあるある男の顔を、ゆっくりと、そして力強く指し示した。
「さて、兄上が無力化された今、いよいよ本丸を攻めるとしようか」
その指が指し示していたのは、夜会で特定した最初のターゲット。
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