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第七十一話:復讐の代償
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ヴェルヘイム公爵家の当主としての日々は、想像を絶するほど多忙だった。アッシュの執務室には朝から晩までひっきりなしに人が訪れ、彼の机には帝国の各地から送られてくる書類が山のように積み上がっていく。領地の管理、派閥の再編、他の貴族からの陳情。その全てを、アッシュは驚異的な速度と正確さで処理していった。
その姿は、かつて彼がいたブラック企業の有能すぎる経営者のようだった。感情を挟まずただ淡々と、最も合理的な判断を下していく。彼の采配に無駄も間違いもなかった。周囲の者たちは、その若き当主の底知れない手腕に畏敬の念を抱いた。
だが、全ての仕事が終わり広大な執務室に一人きりになった時、アッシュは言い知れぬ虚しさに襲われた。
復讐。そのただ一つの目標だけを道標に彼はここまで駆け抜けてきた。だが、その目標を達成してしまった今、彼の心はまるで羅針盤を失った船のように、どこへ向かえばいいのか分からずにいた。
彼はスキルを発動させ、自らの感情を客観的に分析しようと試みた。
『アッシュ・フォン・ヴェルヘイム。感情ステータス:虚無 80、倦怠 70、焦燥 40』
冷たい数値が彼の心の空白を無慈悲に映し出すだけだった。問題は分かっている。だが、その解決方法が分からない。
(これが、俺が望んだ結末だったのか……?)
権力、財産、そして安全。求めていたものは全て手に入れたはずだった。だが、満たされるどころか心の渇きは増していくばかりだ。
彼はふとヴァイスラントでの日々を思い出していた。凍える大地で仲間たちと泥にまみれながら、温室の双葉が芽吹いたのを見たあの瞬間。あの時の高揚感に比べれば、今のこの勝利はあまりにも色褪せて見えた。
その時、執務室の扉が静かにノックされた。
「アッシュ様。夜も更けました。少しお休みになっては」
入ってきたのはリリアだった。彼女はヴァイスラントで採れたカモミールを使ったハーブティーを、盆に乗せて運んできた。その湯気からは心を落ち着かせる優しい香りが立ち上っている。
「……ああ」
アッシュは短く応じた。
リリアはアッシュの机の上にそっとカップを置くと、何も言わずに彼の隣に立った。彼女は難しいことは分からない。だが、主が今、深い孤独の中にいることだけは、その獣のような直感で感じ取っていた。
しばらく沈黙が流れた。
やがてアッシュが独り言のように呟いた。
「俺は全てを手に入れたはずなんだがな。どういうわけか、少しも満たされない」
「……」
リリアはただ黙って彼の言葉を聞いていた。
「ヴァイスラントで、お前たちといた時の方がよほど……」
アッシュはそこまで言って口を噤んだ。弱音を吐くなど、らしくもない。
だが、リリアはその言葉の意味を自分なりに理解していた。
「ヴァイスラントは、楽しかったです」
彼女は窓の外の月を見上げながらぽつりと言った。
「みんなで一緒に頑張りましたから。ガイウス様も、ブロックさんも、ギムリさんも、ボルグさんも。みんなアッシュ様のために、一生懸命でした」
その何気ない言葉が、アッシュの心の最も柔らかい部分を不意に突き刺した。
そうだ。ヴァイスラントでは彼は一人ではなかった。信頼できる仲間がいた。共に未来を築くという共通の目標があった。ゼロから何かを創り上げる、あの純粋な喜びがあった。
いつの間にか忘れてしまっていた感覚。
復讐を遂げる過程で彼は多くのものを手に入れた。だが、それと引き換えにあの温かい団結の輪の中から、一人だけ抜け出してしまったのかもしれない。
アッシュがハーブティーのカップを手に取ったその時だった。
来客を告げるベルが静かに鳴った。こんな夜更けに誰だろうか。
ジョセフに案内されて執務室に現れたのはセレスティアだった。彼女はアッシュがヴェルヘイム公爵家の当主となって以来、初めて彼と顔を合わせた。
「……ずいぶんと静かになったものね」
セレスティアは部屋の重苦しい空気を感じ取り、皮肉を込めて言った。
「復讐を終えた悪魔は、すっかり牙を抜かれてしまったのかしら?」
「生憎だが、まだ休んでいる暇はなさそうだ」
アッシュはハーブティーを一口飲むと、静かに答えた。
セレスティアはアッシュの表情に浮かぶ、以前にはなかった虚無の色を見逃さなかった。だが同時に、彼の瞳の奥の光がまだ消えてはいないことも感じ取っていた。
「あなたが当主になったことで、帝国は大きく変わろうとしているわ。腐敗した貴族たちは怯え、改革を望む者たちはあなたに期待している。あなたはもうあなた一人のためだけに生きることは許されないのよ」
彼女の言葉はアッシュに新たな視点を与えた。
そうだ。まだ終わってなどいない。
復讐は終わった。だが、戦いは終わっていない。
帝国の腐敗の根はまだ深く残っている。それを放置すれば、いずれその毒は自分が築き上げたヴァイスラントにまで及ぶだろう。
アッシュはリリアの顔を見た。彼女の純粋な信頼。
そしてヴァイスラントで待つ、ガイウスやブロックたちの顔を思い浮かべた。
彼らが安心して暮らせる場所。それこそが、自分が本当に求めていた「安楽な生活」の本当の姿だったのではないか。
彼の心の中で失われていた羅針盤が、新たな方角を指し示し始めた。
それはもはや個人的な復讐ではない。大切な仲間たちと彼らが住む世界を守るための、より大きく、そして困難な戦いへの道筋だった。
アッシュはカップに残っていたハーブティーを一気に飲み干した。温かい液体が彼の心に巣食っていた冷たい虚無をゆっくりと溶かしていく。
彼は立ち上がった。その表情から先ほどまでの倦怠感は消え失せていた。
「どうやら俺の安楽な生活は、まだ随分と先のようだ」
彼は苦笑しながら言った。だが、その声には新たな目標を見出した者の力強い響きがあった。
復讐の代償として得た空虚。それを埋めたのは、リリアがもたらしたささやかな温かさだった。
アッシュの物語はここで一つの終わりを告げ、そして新たな始まりを迎えようとしていた。彼の戦いは今、帝国そのものを相手取る壮大なものへと姿を変えようとしていた。
その姿は、かつて彼がいたブラック企業の有能すぎる経営者のようだった。感情を挟まずただ淡々と、最も合理的な判断を下していく。彼の采配に無駄も間違いもなかった。周囲の者たちは、その若き当主の底知れない手腕に畏敬の念を抱いた。
だが、全ての仕事が終わり広大な執務室に一人きりになった時、アッシュは言い知れぬ虚しさに襲われた。
復讐。そのただ一つの目標だけを道標に彼はここまで駆け抜けてきた。だが、その目標を達成してしまった今、彼の心はまるで羅針盤を失った船のように、どこへ向かえばいいのか分からずにいた。
彼はスキルを発動させ、自らの感情を客観的に分析しようと試みた。
『アッシュ・フォン・ヴェルヘイム。感情ステータス:虚無 80、倦怠 70、焦燥 40』
冷たい数値が彼の心の空白を無慈悲に映し出すだけだった。問題は分かっている。だが、その解決方法が分からない。
(これが、俺が望んだ結末だったのか……?)
権力、財産、そして安全。求めていたものは全て手に入れたはずだった。だが、満たされるどころか心の渇きは増していくばかりだ。
彼はふとヴァイスラントでの日々を思い出していた。凍える大地で仲間たちと泥にまみれながら、温室の双葉が芽吹いたのを見たあの瞬間。あの時の高揚感に比べれば、今のこの勝利はあまりにも色褪せて見えた。
その時、執務室の扉が静かにノックされた。
「アッシュ様。夜も更けました。少しお休みになっては」
入ってきたのはリリアだった。彼女はヴァイスラントで採れたカモミールを使ったハーブティーを、盆に乗せて運んできた。その湯気からは心を落ち着かせる優しい香りが立ち上っている。
「……ああ」
アッシュは短く応じた。
リリアはアッシュの机の上にそっとカップを置くと、何も言わずに彼の隣に立った。彼女は難しいことは分からない。だが、主が今、深い孤独の中にいることだけは、その獣のような直感で感じ取っていた。
しばらく沈黙が流れた。
やがてアッシュが独り言のように呟いた。
「俺は全てを手に入れたはずなんだがな。どういうわけか、少しも満たされない」
「……」
リリアはただ黙って彼の言葉を聞いていた。
「ヴァイスラントで、お前たちといた時の方がよほど……」
アッシュはそこまで言って口を噤んだ。弱音を吐くなど、らしくもない。
だが、リリアはその言葉の意味を自分なりに理解していた。
「ヴァイスラントは、楽しかったです」
彼女は窓の外の月を見上げながらぽつりと言った。
「みんなで一緒に頑張りましたから。ガイウス様も、ブロックさんも、ギムリさんも、ボルグさんも。みんなアッシュ様のために、一生懸命でした」
その何気ない言葉が、アッシュの心の最も柔らかい部分を不意に突き刺した。
そうだ。ヴァイスラントでは彼は一人ではなかった。信頼できる仲間がいた。共に未来を築くという共通の目標があった。ゼロから何かを創り上げる、あの純粋な喜びがあった。
いつの間にか忘れてしまっていた感覚。
復讐を遂げる過程で彼は多くのものを手に入れた。だが、それと引き換えにあの温かい団結の輪の中から、一人だけ抜け出してしまったのかもしれない。
アッシュがハーブティーのカップを手に取ったその時だった。
来客を告げるベルが静かに鳴った。こんな夜更けに誰だろうか。
ジョセフに案内されて執務室に現れたのはセレスティアだった。彼女はアッシュがヴェルヘイム公爵家の当主となって以来、初めて彼と顔を合わせた。
「……ずいぶんと静かになったものね」
セレスティアは部屋の重苦しい空気を感じ取り、皮肉を込めて言った。
「復讐を終えた悪魔は、すっかり牙を抜かれてしまったのかしら?」
「生憎だが、まだ休んでいる暇はなさそうだ」
アッシュはハーブティーを一口飲むと、静かに答えた。
セレスティアはアッシュの表情に浮かぶ、以前にはなかった虚無の色を見逃さなかった。だが同時に、彼の瞳の奥の光がまだ消えてはいないことも感じ取っていた。
「あなたが当主になったことで、帝国は大きく変わろうとしているわ。腐敗した貴族たちは怯え、改革を望む者たちはあなたに期待している。あなたはもうあなた一人のためだけに生きることは許されないのよ」
彼女の言葉はアッシュに新たな視点を与えた。
そうだ。まだ終わってなどいない。
復讐は終わった。だが、戦いは終わっていない。
帝国の腐敗の根はまだ深く残っている。それを放置すれば、いずれその毒は自分が築き上げたヴァイスラントにまで及ぶだろう。
アッシュはリリアの顔を見た。彼女の純粋な信頼。
そしてヴァイスラントで待つ、ガイウスやブロックたちの顔を思い浮かべた。
彼らが安心して暮らせる場所。それこそが、自分が本当に求めていた「安楽な生活」の本当の姿だったのではないか。
彼の心の中で失われていた羅針盤が、新たな方角を指し示し始めた。
それはもはや個人的な復讐ではない。大切な仲間たちと彼らが住む世界を守るための、より大きく、そして困難な戦いへの道筋だった。
アッシュはカップに残っていたハーブティーを一気に飲み干した。温かい液体が彼の心に巣食っていた冷たい虚無をゆっくりと溶かしていく。
彼は立ち上がった。その表情から先ほどまでの倦怠感は消え失せていた。
「どうやら俺の安楽な生活は、まだ随分と先のようだ」
彼は苦笑しながら言った。だが、その声には新たな目標を見出した者の力強い響きがあった。
復讐の代償として得た空虚。それを埋めたのは、リリアがもたらしたささやかな温かさだった。
アッシュの物語はここで一つの終わりを告げ、そして新たな始まりを迎えようとしていた。彼の戦いは今、帝国そのものを相手取る壮大なものへと姿を変えようとしていた。
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