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第七十七話:古文書の警告
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帝都を覆う負の感情の霧は、日増しにその濃度を増していった。アッシュは宰相として治安維持部隊の増強や貧困地区への食料配給といった対症療法を矢継ぎ早に打ち出してはいたが、それは焼け石に水だった。人々の心に直接作用する見えざる毒の前では、物理的な対策はほとんど意味をなさなかった。
彼のスキルは二十四時間体制で帝都の感情の奔流を監視し続けていた。だが、敵はあまりにも巧妙だった。負の感情が増幅される現場は毎日違う場所で、違う時間に、違う理由で発生する。そこには何の法則性も見いだせず、まるで帝都全体が巨大な火薬庫となり、どこで火花が散るか予測できない状態だった。
アッシュが宰相執務室で情報の海に溺れかけている頃、セレスティアは王宮の地下深くに眠る王家の禁書庫へと足を踏み入れていた。
そこは、何百年もの間限られた人間しか立ち入ったことのない、歴史の墓場のような場所だった。空気は乾燥し、埃と古い羊皮紙の匂いが満ちている。巨大な書架が迷路のように立ち並び、そこに収められた無数の書物は帝国の光と、そして闇の歴史を静かに吸い込んでいるようだった。
「……すごい場所ね」
セレスティアは松明の明かりを頼りに、書架の間をゆっくりと進んだ。彼女はアッシュから与えられたキーワード――『蛇の紋章』と『感情の増幅』――を手がかりに、この膨大な知識の海の中からたった一つの真実を探し出さなければならなかった。
調査は困難を極めた。
彼女は帝国の建国史、古代魔術に関する文献、過去の異端審問の記録、その全てに目を通した。だが、蛇の紋章に関する記述はいくつかの神話の中に断片的に登場するだけで、秘密結社に繋がるようなものは見つからなかった。感情を増幅させるという魔術も、いかなる教本にも記されていない未知の領域だった。
数日が過ぎた。セレスティアの美しい顔には疲労の色が濃くなっていた。
(本当に、こんな場所に答えがあるのかしら……)
諦めにも似た感情が彼女の心をよぎる。だが、彼女は諦めなかった。アッシュは自分のやり方を嫌いながらも、この役目を彼女に託した。その信頼に応えなければならない。彼女の正義感が、疲弊した心身を奮い立たせた。
彼女は調査の範囲を、公式な歴史書からより曰く付きの禁書とされる領域へと広げていった。
そして調査開始から五日目の夜、彼女は書庫の最も奥深く、厳重に封印された一角でその書物を見つけ出した。
それはタイトルさえ記されていない、黒い革で装丁された不気味な本だった。表紙には銀で象られた「蛇が尾を喰らう」紋章が、鈍い光を放っている。
セレスティアはごくりと唾を飲み込むと、震える手でその古文書のページをめくった。
そこに記されていたのは、彼女の想像を絶するおぞましい真実だった。
『――警告。この書を読む者よ、心せよ。帝国の光あるところ、必ず影は存在する。その影の名は、『奈落の蛇』。古の混沌の時代より、人の世の裏側でその毒牙を研ぎ澄ませてきた影の教団である』
セレスティアの翡翠色の瞳が見開かれた。
『奈落の蛇』。その名が彼女の心に重く響いた。
古文書は、その教団の恐るべき生態を克明に記していた。
『彼らが崇めるは、混沌と破壊を司る古の邪神。彼らは人の負の感情――憎悪、絶望、恐怖、嫉妬――を、邪神に捧げる至上の供物と見なす。故に、彼らは歴史の裏で常に暗躍し、戦争を煽り、疫病を広め、人心を惑わし、世界を負の感情で満たすことだけを目的としてきた』
(負の感情を糧に……?)
セレスティアは帝都で起きている一連の事件と、この記述が不気味に一致することに戦慄した。
『彼らは特殊な精神干渉魔術を用いる。それは、対象の心に潜む僅かな負の感情の種を見つけ出し、それを強制的に増幅させ狂気へと至らしめる禁忌の術である。これにより一人の不満は暴動となり、一人の嫉妬は惨殺事件となる。彼らは自らの手を汚すことなく、人々を互いに争わせ世界を負の連鎖で縛り上げるのだ』
感情の増幅。キーワードが繋がった。
セレスティアは震える指でページをさらにめくった。そこには蛇の紋章の意味も記されていた。
『蛇が尾を喰らう紋章は、終わりなき負の連鎖を象徴する。憎しみが憎しみを生み、絶望が絶望を呼ぶ。その連鎖の果てに世界が負の感情で完全に満たされた時、彼らが崇める邪神は復活し、この世の全てを喰らい尽くし、新たな混沌の時代が始まると彼らは信じている』
狂信者。
自分たちが戦っている相手は、ただの反体制組織や権力闘争に明け暮れる貴族などではなかった。世界の破滅を望む、狂気の宗教結社。その事実はセレスティアの背筋を凍らせるのに十分だった。
彼女は古文書を胸に抱きしめ、禁書庫を飛び出した。一刻も早く、この恐るべき真実をアッシュに伝えなければならない。
宰相執務室。アッシュはキルヒアイスからの報告に、眉をひそめていた。
「法則性は見いだせませんでした。暴動や殺人の発生は意図的にランダム化されているとしか思えません。まるで我々の分析能力を嘲笑うかのように……」
そこにセレスティアが息を切らして駆け込んできた。
「アッシュ! 見つけたわ!」
彼女は机の上に、黒い革の古文書を叩きつけるように置いた。
「これが、敵の正体よ!」
アッシュはセレスティアから語られる古文書の内容を、黙って聞いていた。
『奈落の蛇』。邪神復活。負の感情を糧とする影の教団。
ファンタジー小説のような荒唐無稽な話。だが、それが今帝都で起きている全ての不可解な事件を完璧に説明していた。
全てのピースが、一つの悍ましい絵となって繋がった。
敵の正体は、『奈落の蛇』。
その目的は、帝都を負の感情で満たすこと。
暴動も殺人も、全てはそのための儀式の一環だったのだ。
「……なるほどな」
アッシュは古文書を手に取ると、そのページを静かにめくった。
「これでようやく敵の輪郭が見えてきた」
彼の赤い瞳は恐怖に染まるどころか、むしろ好機を見出した狩人のように鋭い光を放っていた。
見えざる敵の正体が初めて暴かれた。
だが、その正体は彼らの想像を遥かに超える巨大で根深い悪だった。
アッシュたちの戦いは帝国の存亡だけでなく、世界の運命そのものを賭けた新たな次元へと突入しようとしていた。
彼のスキルは二十四時間体制で帝都の感情の奔流を監視し続けていた。だが、敵はあまりにも巧妙だった。負の感情が増幅される現場は毎日違う場所で、違う時間に、違う理由で発生する。そこには何の法則性も見いだせず、まるで帝都全体が巨大な火薬庫となり、どこで火花が散るか予測できない状態だった。
アッシュが宰相執務室で情報の海に溺れかけている頃、セレスティアは王宮の地下深くに眠る王家の禁書庫へと足を踏み入れていた。
そこは、何百年もの間限られた人間しか立ち入ったことのない、歴史の墓場のような場所だった。空気は乾燥し、埃と古い羊皮紙の匂いが満ちている。巨大な書架が迷路のように立ち並び、そこに収められた無数の書物は帝国の光と、そして闇の歴史を静かに吸い込んでいるようだった。
「……すごい場所ね」
セレスティアは松明の明かりを頼りに、書架の間をゆっくりと進んだ。彼女はアッシュから与えられたキーワード――『蛇の紋章』と『感情の増幅』――を手がかりに、この膨大な知識の海の中からたった一つの真実を探し出さなければならなかった。
調査は困難を極めた。
彼女は帝国の建国史、古代魔術に関する文献、過去の異端審問の記録、その全てに目を通した。だが、蛇の紋章に関する記述はいくつかの神話の中に断片的に登場するだけで、秘密結社に繋がるようなものは見つからなかった。感情を増幅させるという魔術も、いかなる教本にも記されていない未知の領域だった。
数日が過ぎた。セレスティアの美しい顔には疲労の色が濃くなっていた。
(本当に、こんな場所に答えがあるのかしら……)
諦めにも似た感情が彼女の心をよぎる。だが、彼女は諦めなかった。アッシュは自分のやり方を嫌いながらも、この役目を彼女に託した。その信頼に応えなければならない。彼女の正義感が、疲弊した心身を奮い立たせた。
彼女は調査の範囲を、公式な歴史書からより曰く付きの禁書とされる領域へと広げていった。
そして調査開始から五日目の夜、彼女は書庫の最も奥深く、厳重に封印された一角でその書物を見つけ出した。
それはタイトルさえ記されていない、黒い革で装丁された不気味な本だった。表紙には銀で象られた「蛇が尾を喰らう」紋章が、鈍い光を放っている。
セレスティアはごくりと唾を飲み込むと、震える手でその古文書のページをめくった。
そこに記されていたのは、彼女の想像を絶するおぞましい真実だった。
『――警告。この書を読む者よ、心せよ。帝国の光あるところ、必ず影は存在する。その影の名は、『奈落の蛇』。古の混沌の時代より、人の世の裏側でその毒牙を研ぎ澄ませてきた影の教団である』
セレスティアの翡翠色の瞳が見開かれた。
『奈落の蛇』。その名が彼女の心に重く響いた。
古文書は、その教団の恐るべき生態を克明に記していた。
『彼らが崇めるは、混沌と破壊を司る古の邪神。彼らは人の負の感情――憎悪、絶望、恐怖、嫉妬――を、邪神に捧げる至上の供物と見なす。故に、彼らは歴史の裏で常に暗躍し、戦争を煽り、疫病を広め、人心を惑わし、世界を負の感情で満たすことだけを目的としてきた』
(負の感情を糧に……?)
セレスティアは帝都で起きている一連の事件と、この記述が不気味に一致することに戦慄した。
『彼らは特殊な精神干渉魔術を用いる。それは、対象の心に潜む僅かな負の感情の種を見つけ出し、それを強制的に増幅させ狂気へと至らしめる禁忌の術である。これにより一人の不満は暴動となり、一人の嫉妬は惨殺事件となる。彼らは自らの手を汚すことなく、人々を互いに争わせ世界を負の連鎖で縛り上げるのだ』
感情の増幅。キーワードが繋がった。
セレスティアは震える指でページをさらにめくった。そこには蛇の紋章の意味も記されていた。
『蛇が尾を喰らう紋章は、終わりなき負の連鎖を象徴する。憎しみが憎しみを生み、絶望が絶望を呼ぶ。その連鎖の果てに世界が負の感情で完全に満たされた時、彼らが崇める邪神は復活し、この世の全てを喰らい尽くし、新たな混沌の時代が始まると彼らは信じている』
狂信者。
自分たちが戦っている相手は、ただの反体制組織や権力闘争に明け暮れる貴族などではなかった。世界の破滅を望む、狂気の宗教結社。その事実はセレスティアの背筋を凍らせるのに十分だった。
彼女は古文書を胸に抱きしめ、禁書庫を飛び出した。一刻も早く、この恐るべき真実をアッシュに伝えなければならない。
宰相執務室。アッシュはキルヒアイスからの報告に、眉をひそめていた。
「法則性は見いだせませんでした。暴動や殺人の発生は意図的にランダム化されているとしか思えません。まるで我々の分析能力を嘲笑うかのように……」
そこにセレスティアが息を切らして駆け込んできた。
「アッシュ! 見つけたわ!」
彼女は机の上に、黒い革の古文書を叩きつけるように置いた。
「これが、敵の正体よ!」
アッシュはセレスティアから語られる古文書の内容を、黙って聞いていた。
『奈落の蛇』。邪神復活。負の感情を糧とする影の教団。
ファンタジー小説のような荒唐無稽な話。だが、それが今帝都で起きている全ての不可解な事件を完璧に説明していた。
全てのピースが、一つの悍ましい絵となって繋がった。
敵の正体は、『奈落の蛇』。
その目的は、帝都を負の感情で満たすこと。
暴動も殺人も、全てはそのための儀式の一環だったのだ。
「……なるほどな」
アッシュは古文書を手に取ると、そのページを静かにめくった。
「これでようやく敵の輪郭が見えてきた」
彼の赤い瞳は恐怖に染まるどころか、むしろ好機を見出した狩人のように鋭い光を放っていた。
見えざる敵の正体が初めて暴かれた。
だが、その正体は彼らの想像を遥かに超える巨大で根深い悪だった。
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