無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第七十六話:負の連鎖

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アルフォンス脱走の衝撃から一ヶ月。帝都は嵐の前の静けさのような、不気味な平穏に包まれていた。アッシュは帝国宰相として改革を進めながらも、その全神経を『帝国の影』と彼らが名乗る秘密結社の捜索に注いでいた。

『北風商会』を拠点とする情報網は、蜘蛛の巣のように帝都の隅々まで張り巡らされた。だが、敵はあまりにも巧妙だった。彼らは影に潜み、決して尻尾を掴ませない。アッシュが手に入れた「蛇が尾を喰らう」という紋章以外に、彼らに繋がる手がかりは何もなかった。

そんな膠着状態を破ったのは物理的な攻撃ではなかった。それはもっと静かで、そして陰湿な、社会の基盤を揺るがす崩壊の兆しだった。

事件は帝都の南区、最も貧しい者たちが暮らすパン工房で始まった。
雨が続き小麦の輸送がわずかに遅れた。その影響でパンの値段が銅貨一枚分だけ値上がりした。それはこれまでにも時折あった些細な出来事だった。
だが、その日の人々の反応は異常だった。

「ふざけるな! 俺たち貧乏人からさらに搾り取る気か!」
一人の男の怒声が引き金となった。
その声に呼応するように、周囲にいた人々が次々とパン屋に詰め寄る。彼らの目は血走り、その怒りは尋常ではなかった。
「そうだそうだ!」
「貴族どもと結託して、俺たちを飢え死にさせるつもりだ!」
口論はあっという間に殴り合いに発展し、やがて数百人規模の打ち壊しへとエスカレートした。人々はパン工房を破壊し、周辺の裕福な商人の店を襲い始めた。

治安維持部隊が駆けつけた頃には、南区の一角はまるで戦場のような有様だった。

宰相執務室。アッシュはキルヒアイスから提出された暴動の報告書を、厳しい表情で読んでいた。
「……動機があまりにも些細すぎる」
アッシュは呟いた。銅貨一枚の値上げでこれほど大規模な暴動が起きるなど、通常では考えられない。民衆の不満は確かに溜まっている。だが、これは何かがおかしい。

その日から同様の事件が帝都の各所で頻発し始めた。
市場での場所取りを巡るいさかいが、商人同士の大乱闘に。
酒場での些細な口喧嘩が、数十人を巻き込む流血沙汰に。
人々の怒りはまるで乾いた薪のように、ほんの小さな火種で制御不能なほど燃え上がった。

アッシュは自ら暴動が起きた現場へと足を運んだ。彼は宰相としての身分を隠し、ただの書記官としてリリアだけを伴い、混乱の爪痕が残る街を歩いた。
そして彼はスキル【感情経済】を使い、その場に残る感情の残滓を読み取った。

その瞬間、アッシュは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
現場には確かに暴動に参加した人々の「怒り」や「不満」の感情が渦巻いていた。だが、その濃度が異常だったのだ。
通常、人々の感情は時間と共に薄れていく。だが、この場所に残る負の感情は、まるで強力な磁場のようにいつまでも濃く澱んでいた。

『怒り:90(増幅)』
『憎悪:85(増幅)』
『不満:95(増幅)』

感情の数値の横に、アッシュがこれまで見たことのない『増幅』というタグが付いていた。
まるで誰かが目に見えないメガホンで、人々の負の感情を怒鳴りつけているかのようだ。

「……やはり、自然発生的なものではないな」
アッシュは確信した。『帝国の影』は新たな攻撃を仕掛けてきている。それは物理的な破壊工作ではない。人々の心そのものを標的とした、恐るべき心理攻撃だった。

そして負の連鎖はそれだけでは終わらなかった。
暴動と時を同じくして、帝都では残忍な手口の連続殺人事件が発生し始めた。被害者に共通点はなく、その動機も不明。ただ、犯行現場には暴動現場と同じく、異常な感情の渦が残されていた。

最初の被害者は、夜道を一人で歩いていた若い女性だった。彼女の遺体はまるで獣に引き裂かれたかのように無惨な姿で発見された。現場に残る感情は被害者のものと思われる、極限の「恐怖:100(増幅)」。
次の被害者は裕福な商家の主人だった。彼は自室のベッドの上で心臓を抉り出されていた。現場の感情は、「絶望:99(増幅)」。

これらの事件は帝都の民衆に、暴動とは質の違うじっとりとした恐怖を植え付けた。
夜道を歩く者はいなくなり、人々は互いを疑い、隣人の顔に殺人鬼の影を見るようになった。

宰相執務室は、帝国を揺るがす二つの巨大な事件の対策本部と化していた。
「暴動の首謀者と連続殺人犯の関連性は見つかりません。全く別の事件として、捜査は難航しております」
治安維持部隊の長官が、疲弊しきった顔で報告する。

だが、アッシュには分かっていた。これらは根で繋がっている。
「奴らの目的は、帝都に『負の感情』を充満させることだ」
アッシュは地図の上に、暴動が起きた場所と殺人が起きた場所を、それぞれ赤と黒のピンで示していった。
「暴動で『怒り』と『憎悪』を。殺人で『恐怖』と『絶望』を。奴らはまるで農夫が畑を耕すように、計画的に帝都を負の感情で埋め尽くそうとしている」

「何のために……そんなことを……」
セレスティアが信じられないという顔で呟いた。

「分からない。だが、この『負の感情の異常増幅』こそが、奴らがこの地にいるという唯一の証拠だ」
アッシュは地図を睨みつけた。
「この感情の震源地を探り当てれば、敵の尻尾を掴めるかもしれない」

アッシュはセレスティアとキルヒアイスに新たな指示を与えた。
「セレスティア殿。あなたは王家の書庫へ。過去の文献の中に、このような異常な現象や『蛇の紋章』に関する記述がないか、徹底的に調べてほしい」
「分かったわ」

「キルヒアイス卿。あなたは暴動と殺人、二つの事件のデータをあらゆる角度から分析しろ。発生時刻、場所、天候、月の満ち欠け。どんな些細なことでもいい。そこに何らかの法則性があるはずだ」
「承知いたしました」

そしてアッシュ自身は、これまで以上に深く帝都の感情の奔流へと意識を沈めていった。彼は自らのスキルを巨大な探知機として使い、帝都に満ちる負の感情の、その源泉を探り始めた。

見えざる敵はついにその牙を剥き出しにした。
それは帝国という巨大な身体を、内側から蝕む精神の病。
アッシュは、その病原体を特定し切除するための、孤独でそして前例のない戦いに身を投じることになった。負の感情が渦巻く帝都の闇の中で、彼の本当の狩りが、今、始まろうとしていた。
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