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第七十五話:帝国の影
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アッシュが「見えざる敵」の存在を確信してから数週間。帝国は奇妙な静けさと、水面下の不穏な緊張感に包まれていた。アッシュの改革に対する貴族たちのあからさまな抵抗は鳴りを潜めた。だが、それは彼らが屈服したからではない。帝国各地で頻発する不審な事件が彼ら自身の身にも危険が及ぶ可能性を示唆し、恐怖に身を竦ませていたからだ。
破壊工作はさらに巧妙かつ大胆になっていった。
帝都と地方を結ぶ主要な橋が夜陰に乗じて爆破された。これにより物流は一時的に麻痺し、民衆の間に不安が広がった。
帝国の通貨を鋳造する造幣局から大量の金が盗まれた。それは単なる窃盗事件ではなかった。犯人たちは金の代わりに精巧に作られた偽金貨をばらまいていったのだ。市場は混乱し、帝国の信用は大きく揺らいだ。
犯人は誰一人として捕まっていない。現場には何の痕跡も残されていなかった。ただ、アッシュのスキルだけが、そこにかつて存在した冷たい「悪意」の残滓を感じ取っていた。
宰相執務室。アッシュは積まれた報告書の山を前に、厳しい表情で腕を組んでいた。
「……完全に後手に回っているな」
彼の隣ではキルヒアイスとセレスティアが、同じように険しい顔で地図を睨んでいた。
「これほどの規模と計画性……。単独の組織の犯行とは思えません」
キルヒアイスが分析結果を述べる。
「橋の爆破には高度な工兵技術が。造幣局への侵入には内部に協力者がいなければ不可能です。敵は帝国のあらゆる場所に、その根を深く張っているとしか……」
「問題は、その目的よ」
セレスティアが焦燥感を滲ませた声で言った。
「これらの破壊工作は直接的な利益を生むものではないわ。ただ帝国に混乱と不安をもたらすだけ。まるで、この国がゆっくりと死んでいく様を楽しんでいるかのよう……」
彼女の言葉は、その場にいる全員の背筋を凍らせた。
その時、執務室の扉が慌ただしくノックされ、ジョセフが血相を変えて飛び込んできた。
「アッシュ様! 大変です! ヴェルヘイム公爵家の……アルフォンス様が、幽閉先の修道院から脱走いたしました!」
「何!?」
その報告はアッシュにとっても完全に想定外だった。
聖アルバン修道院は帝国の最北端に位置する、脱出不可能と言われる天然の牢獄だ。厳重な監視下に置かれていたはずのアルフォンスが、どうやって?
「衛兵は……衛兵は全員殺害されていたとのことです。その手口はあまりにも残忍で……」
ジョセフの声は震えていた。
「現場には奇妙な紋章が残されていたと……。蛇が自らの尾を喰らう姿を描いた……」
ウロボロス。
その紋章の名を、セレスティアが息を呑んで呟いた。
「……まさか。そんなはずは……」
彼女の顔から血の気が引いていた。
「知っているのか、セレスティア殿」
アッシュが鋭い視線を彼女に向ける。
セレスティアは震える声で語り始めた。
「それは古の禁書にのみ記されている、伝説上の秘密結社の紋章です。彼らは『帝国の影』と呼ばれ、歴史の節目節目でこの国に混乱と災いをもたらしてきたと……。ですが、それはただのおとぎ話だと思われていました」
「おとぎ話、か」
アッシュは冷ややかに呟いた。
「そのおとぎ話の住人が、今、俺の兄を連れ去ったというわけだ」
全てのピースが繋がった。
帝国各地で頻発する巧妙な破壊工作。
その背後にいた見えざる敵。
その正体は、帝国の歴史の闇に数百年にわたって巣食ってきた巨大な秘密結社。
彼らの目的は何か。なぜ今になって活動を活発化させたのか。そして、なぜ失脚したアルフォンスを?
「……兄上は利用価値があるからだ」
アッシュは自問自答するように言った。
「ヴェルヘイム公爵家の元嫡男。その血筋と、俺に対する深い憎悪。彼らはアルフォンスを新たな傀儡として担ぎ上げ、帝国に内乱を引き起こすつもりだ」
アッシュの改革は結果として、この眠れる蛇を刺激しその活動を活発化させてしまったのだ。
彼は腐敗した貴族という分かりやすい敵を倒したと思っていた。だが、その背後には比較にならないほど巨大で、そして悪質な真の敵が潜んでいた。
「……面白い」
絶望的な状況を前にして、アッシュの口元に笑みが浮かんだ。それは獰猛な獣が己を超える獲物を見つけた時のような、歓喜の笑みだった。
「ようやく姿を現したか。帝国の本当の病巣め」
彼は壁に貼られた帝国の地図の前に立った。
彼の復讐は終わってはいなかった。
彼の戦いは個人的なものから帝国の運命そのものを賭けた壮大なものへと、今、その姿を変えた。
「これより、我々は『帝国の影』との全面戦争に突入する」
アッシュは、その場にいる仲間たちに向かって静かに、しかし力強く宣言した。
「相手は見えない。だが、必ず尻尾を掴み、その正体を白日の下に晒し根絶やしにする。俺の安楽な生活を脅かす者は、たとえそれが歴史の闇そのものであろうとも、容赦はしない」
それは帝国宰相としてのアッシュが下した、最初の、そして最も重大な決断だった。
彼の本当の戦いが今、始まった。帝国の深層部に巣食う名もなき敵との、光と影の終わりなき戦いが。
破壊工作はさらに巧妙かつ大胆になっていった。
帝都と地方を結ぶ主要な橋が夜陰に乗じて爆破された。これにより物流は一時的に麻痺し、民衆の間に不安が広がった。
帝国の通貨を鋳造する造幣局から大量の金が盗まれた。それは単なる窃盗事件ではなかった。犯人たちは金の代わりに精巧に作られた偽金貨をばらまいていったのだ。市場は混乱し、帝国の信用は大きく揺らいだ。
犯人は誰一人として捕まっていない。現場には何の痕跡も残されていなかった。ただ、アッシュのスキルだけが、そこにかつて存在した冷たい「悪意」の残滓を感じ取っていた。
宰相執務室。アッシュは積まれた報告書の山を前に、厳しい表情で腕を組んでいた。
「……完全に後手に回っているな」
彼の隣ではキルヒアイスとセレスティアが、同じように険しい顔で地図を睨んでいた。
「これほどの規模と計画性……。単独の組織の犯行とは思えません」
キルヒアイスが分析結果を述べる。
「橋の爆破には高度な工兵技術が。造幣局への侵入には内部に協力者がいなければ不可能です。敵は帝国のあらゆる場所に、その根を深く張っているとしか……」
「問題は、その目的よ」
セレスティアが焦燥感を滲ませた声で言った。
「これらの破壊工作は直接的な利益を生むものではないわ。ただ帝国に混乱と不安をもたらすだけ。まるで、この国がゆっくりと死んでいく様を楽しんでいるかのよう……」
彼女の言葉は、その場にいる全員の背筋を凍らせた。
その時、執務室の扉が慌ただしくノックされ、ジョセフが血相を変えて飛び込んできた。
「アッシュ様! 大変です! ヴェルヘイム公爵家の……アルフォンス様が、幽閉先の修道院から脱走いたしました!」
「何!?」
その報告はアッシュにとっても完全に想定外だった。
聖アルバン修道院は帝国の最北端に位置する、脱出不可能と言われる天然の牢獄だ。厳重な監視下に置かれていたはずのアルフォンスが、どうやって?
「衛兵は……衛兵は全員殺害されていたとのことです。その手口はあまりにも残忍で……」
ジョセフの声は震えていた。
「現場には奇妙な紋章が残されていたと……。蛇が自らの尾を喰らう姿を描いた……」
ウロボロス。
その紋章の名を、セレスティアが息を呑んで呟いた。
「……まさか。そんなはずは……」
彼女の顔から血の気が引いていた。
「知っているのか、セレスティア殿」
アッシュが鋭い視線を彼女に向ける。
セレスティアは震える声で語り始めた。
「それは古の禁書にのみ記されている、伝説上の秘密結社の紋章です。彼らは『帝国の影』と呼ばれ、歴史の節目節目でこの国に混乱と災いをもたらしてきたと……。ですが、それはただのおとぎ話だと思われていました」
「おとぎ話、か」
アッシュは冷ややかに呟いた。
「そのおとぎ話の住人が、今、俺の兄を連れ去ったというわけだ」
全てのピースが繋がった。
帝国各地で頻発する巧妙な破壊工作。
その背後にいた見えざる敵。
その正体は、帝国の歴史の闇に数百年にわたって巣食ってきた巨大な秘密結社。
彼らの目的は何か。なぜ今になって活動を活発化させたのか。そして、なぜ失脚したアルフォンスを?
「……兄上は利用価値があるからだ」
アッシュは自問自答するように言った。
「ヴェルヘイム公爵家の元嫡男。その血筋と、俺に対する深い憎悪。彼らはアルフォンスを新たな傀儡として担ぎ上げ、帝国に内乱を引き起こすつもりだ」
アッシュの改革は結果として、この眠れる蛇を刺激しその活動を活発化させてしまったのだ。
彼は腐敗した貴族という分かりやすい敵を倒したと思っていた。だが、その背後には比較にならないほど巨大で、そして悪質な真の敵が潜んでいた。
「……面白い」
絶望的な状況を前にして、アッシュの口元に笑みが浮かんだ。それは獰猛な獣が己を超える獲物を見つけた時のような、歓喜の笑みだった。
「ようやく姿を現したか。帝国の本当の病巣め」
彼は壁に貼られた帝国の地図の前に立った。
彼の復讐は終わってはいなかった。
彼の戦いは個人的なものから帝国の運命そのものを賭けた壮大なものへと、今、その姿を変えた。
「これより、我々は『帝国の影』との全面戦争に突入する」
アッシュは、その場にいる仲間たちに向かって静かに、しかし力強く宣言した。
「相手は見えない。だが、必ず尻尾を掴み、その正体を白日の下に晒し根絶やしにする。俺の安楽な生活を脅かす者は、たとえそれが歴史の闇そのものであろうとも、容赦はしない」
それは帝国宰相としてのアッシュが下した、最初の、そして最も重大な決断だった。
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