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第24話:豊かさが生む軋轢
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季節は冬を迎え、アシュフォード領は静かな、しかし確かな活気に満ちていた。
高殿(たたら)は定期的に火を入れられ、質の高いアシュフォード鋼を安定して供給している。その鋼で作られた新しい農具は、来春の耕作に向けて農夫たちの手で丁寧に手入れされていた。水車は凍てつく川の流れにも負けず力強く回り続け、有り余るほどの小麦粉を生産している。
そして何より、領民たちの食卓が豊かになった。
備蓄された小麦と、味噌や醤油で味付けされた保存食。栄養状態が改善されたことで、厳しい冬を越すための体力も十分に蓄えられている。かつてこの領地を覆っていた、飢えと病への恐怖は、もはや過去のものとなりつつあった。
俺の日常も、開発者として、そして領主の子息として充実していた。
日中はエリアーナと共に商会の経営計画を練り、職人たちと新しい道具の設計について議論する。夜は開発室で、シルフィと共に魔法の原理を解き明かすための実験に没頭する。
「リオ、すごい! 私のマナが、こんなに綺麗な光の帯になるなんて!」
シルフィは、俺が試作した「魔力可視化装置」――水晶と銅線を組み合わせただけの簡素なものだが――に自分のマナを流し込み、虹色に輝く水晶を前に子供のようにはしゃいでいた。
彼女の協力のおかげで、魔力(マナ)が電気や磁気と似た性質を持つことまで突き止めつつあった。
平和で、知的で、刺激的な毎日。
このまま、この穏やかな時間が続けばいい。俺は、心の底からそう願っていた。
だが、光が強ければ影もまた濃くなるという、この世界の理(ことわり)を、俺は少し見過ごしていたのかもしれない。
その日、エリアーナが険しい表情で俺の執務室を訪れた。彼女が持ってきたのは、商会の収支報告書ではなく、近隣領地に関する調査報告書だった。
「リオ、少し厄介なことになったわ」
彼女が指し示したのは、アシュフォード領の東に隣接する「グライフ子爵領」の項目だった。
「領主は、エドガー・フォン・グライフ。強欲で、短絡的で、自分の力を過信している典型的な田舎貴族よ。彼の領地は圧政で疲弊し、今年の収穫も芳しくなかったと聞くわ」
エリアーナは、淡々と事実を述べる。
「そして、そのグライフ子爵が、私たちの領地の急成長を快く思っていない。いえ、正確に言えば、激しく嫉妬しているようです」
「嫉妬、か。ありがちな話だな」
「ええ。問題は、その嫉妬が具体的な行動となって現れ始めたことよ」
エリアーナの報告は、深刻なものだった。
グライフ子爵は、自分の領地を通過してアシュフォード領へ向かう行商人に対し、法外な通行税を課し始めたという。事実上の、経済封鎖に近い嫌がらせだ。
さらに、アシュフォード産の石鹸や醤油について、「毒が含まれている」「呪われた品物だ」などという根も葉もない悪評を、周辺地域に流しているというのだ。
「姑息な真似を」
俺は思わず舌打ちした。
「幸い、すでに私たちの製品の品質は広く知れ渡っているから、今のところ実害はほとんどないわ。むしろ、そんなことをすればグライフ子爵自身の評判が落ちるだけ。普通なら、やらない手よ」
「だが、やった。つまり、相手は普通じゃないってことか」
「ええ。彼の思考は、おそらくもっと単純よ。『隣の奴が儲けているのが気に入らない。だから潰してやる』。ただ、それだけ」
エリアーナの分析は、おそらく正しいだろう。世の中には、自分が豊かになることより、他人の不幸を願う人間がいるものだ。
数日後、事態はさらに悪化した。
領地の境界線をパトロールしていたバルガスが、血相を変えて戻ってきたのだ。
「リオ様! グライフ領の兵士たちが、境界にある川の領有権を主張し、我々の見張りの兵に因縁をつけてきました。小競り合いになり、こちらに怪我人が出ております!」
幸い軽傷だったが、ついに物理的な接触が始まったのだ。
俺はすぐに、バルガスと共に現場へと向かった。
川を挟んで対峙する両軍。数はこちらが上だが、向こうの兵士たちの目は血走り、明らかに好戦的だった。その中心には、肥え太った中年男が馬上にふんぞり返っていた。あれがグライフ子爵だろう。
彼は俺の姿を認めると、嘲るように大声で叫んだ。
「おお、あれがアシュフォードの三男坊か! まるで女のようなガキではないか! そんな小僧に領地を任せるとは、アルフォンス殿も耄碌したものですな!」
下品な笑い声が、グライフ領の兵士たちから上がる。
バルガスが怒りに身を震わせ、剣の柄に手をかけた。俺はそれを、静かに手で制した。
「何の用だ、グライフ子爵。ここは、古くからアシュフォード家の土地のはずだ」
「黙れ、小僧! この川は俺のものだ! 最近、お前たちがよそ者を引き入れて儲けているそうじゃないか。その富は、本来なら俺たちが得るべきものだったのだ! 今すぐこの川の領有権を放棄し、これまでの不当な利益に対する賠償金を支払え! さもなくば、力ずくで奪い取るまでだ!」
あまりにも理不尽な、ヤクザの因縁そのものだった。話し合いなど、最初からする気がないのだ。
俺は冷静に言い返した。
「ここはアシュフォードの土地であり、その富は我々領民が、血と汗で築き上げたものだ。あんたにくれてやるものなど、砂一粒たりともない」
「……ほう。言うようになったではないか、クソガキが」
グライフ子爵の顔から、笑みが消えた。その目に、剥き出しの殺意が宿る。
「いいだろう。その生意気な口が、いつまで利けるか見ものだな。覚えておけ。お前たちのその偽りの繁栄は、もうすぐ終わるのだと」
彼はそう言い放つと、乱暴に馬首を返し、兵を引き連れて去っていった。
それは、事実上の宣戦布告だった。
屋敷に戻り、俺はすぐに父とエリアーナ、バルガスを集めて緊急の会議を開いた。
グライフ子爵とのやり取りを報告すると、父は青い顔で呻いた。
「なんということだ。あの男、本気で戦争を仕掛けてくるつもりなのか……」
「おそらく」
俺が答えるより先に、エリアーナが重々しく口を開いた。
「私の情報網が、最悪の報せを掴んできました。グライフ子爵は、最近、王都で悪名高い傭兵団『鉄の爪』を、かなりの高額で雇い入れたようです。さらに、周辺のならず者たちを兵としてかき集め、急速に軍備を増強している、と」
その場の空気が、凍り付いた。傭兵まで雇い入れたとなれば、彼の本気度は疑いようがない。
バルガスが、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「鉄の爪……連中は残忍で、金のためなら何でもやる連中です。略奪や暴行は当たり前。戦い方も、正々堂々とは程遠い。厄介な相手ですぞ」
「彼の狙いは、もう明らかね」とエリアーナが続けた。「私たちの領地そのものを、武力で奪い取り、全てを自分のものにするつもりよ」
これまでの平和な日常は、完全に終わりを告げた。
俺たちが汗水たらして築き上げてきた、この豊かで穏やかな領地が、今、強欲な隣人の手によって蹂躙されようとしている。
領民たちの笑顔。リリアナの笑い声。シルフィの無邪気な好奇心。エリアーナと語り合った未来。バルガスの忠誠。
その全てを、こんな理不尽な暴力に、奪わせてなるものか。
俺の胸の奥で、冷たい炎が静かに燃え上がった。
「……戦争は、避けられないようだな」
俺の静かな呟きに、全員が息を飲む。
「だが、受けて立とう。俺たちが築いてきたこの領地は、俺たちの手で守り抜く」
俺は立ち上がり、窓の外に広がる、雪化粧をした静かな領地を見渡した。
「平和なだけでは、生き残れない。大切なものを守るためには、時に、牙を剥く覚悟が必要になる」
技術者としてのリオ・アシュフォードは、今、この瞬間、領地を守るための司令官へと変貌を遂げなければならなかった。
「エリアーナ、敵の兵力、装備、編成。分かる限りの情報を集めてくれ。バルガス、明日から領民兵の訓練を開始する。父上、領内の食料と資材の管理をお願いします」
矢継ぎ早に指示を出す俺の姿に、戸惑いながらも、皆が力強く頷いた。
アシュフォード領に、静かに戦雲が立ち込め始めていた。
だが、俺の心に恐怖はなかった。
あるのはただ、大切なものを守り抜くという、鋼のような決意だけだった。
高殿(たたら)は定期的に火を入れられ、質の高いアシュフォード鋼を安定して供給している。その鋼で作られた新しい農具は、来春の耕作に向けて農夫たちの手で丁寧に手入れされていた。水車は凍てつく川の流れにも負けず力強く回り続け、有り余るほどの小麦粉を生産している。
そして何より、領民たちの食卓が豊かになった。
備蓄された小麦と、味噌や醤油で味付けされた保存食。栄養状態が改善されたことで、厳しい冬を越すための体力も十分に蓄えられている。かつてこの領地を覆っていた、飢えと病への恐怖は、もはや過去のものとなりつつあった。
俺の日常も、開発者として、そして領主の子息として充実していた。
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「リオ、すごい! 私のマナが、こんなに綺麗な光の帯になるなんて!」
シルフィは、俺が試作した「魔力可視化装置」――水晶と銅線を組み合わせただけの簡素なものだが――に自分のマナを流し込み、虹色に輝く水晶を前に子供のようにはしゃいでいた。
彼女の協力のおかげで、魔力(マナ)が電気や磁気と似た性質を持つことまで突き止めつつあった。
平和で、知的で、刺激的な毎日。
このまま、この穏やかな時間が続けばいい。俺は、心の底からそう願っていた。
だが、光が強ければ影もまた濃くなるという、この世界の理(ことわり)を、俺は少し見過ごしていたのかもしれない。
その日、エリアーナが険しい表情で俺の執務室を訪れた。彼女が持ってきたのは、商会の収支報告書ではなく、近隣領地に関する調査報告書だった。
「リオ、少し厄介なことになったわ」
彼女が指し示したのは、アシュフォード領の東に隣接する「グライフ子爵領」の項目だった。
「領主は、エドガー・フォン・グライフ。強欲で、短絡的で、自分の力を過信している典型的な田舎貴族よ。彼の領地は圧政で疲弊し、今年の収穫も芳しくなかったと聞くわ」
エリアーナは、淡々と事実を述べる。
「そして、そのグライフ子爵が、私たちの領地の急成長を快く思っていない。いえ、正確に言えば、激しく嫉妬しているようです」
「嫉妬、か。ありがちな話だな」
「ええ。問題は、その嫉妬が具体的な行動となって現れ始めたことよ」
エリアーナの報告は、深刻なものだった。
グライフ子爵は、自分の領地を通過してアシュフォード領へ向かう行商人に対し、法外な通行税を課し始めたという。事実上の、経済封鎖に近い嫌がらせだ。
さらに、アシュフォード産の石鹸や醤油について、「毒が含まれている」「呪われた品物だ」などという根も葉もない悪評を、周辺地域に流しているというのだ。
「姑息な真似を」
俺は思わず舌打ちした。
「幸い、すでに私たちの製品の品質は広く知れ渡っているから、今のところ実害はほとんどないわ。むしろ、そんなことをすればグライフ子爵自身の評判が落ちるだけ。普通なら、やらない手よ」
「だが、やった。つまり、相手は普通じゃないってことか」
「ええ。彼の思考は、おそらくもっと単純よ。『隣の奴が儲けているのが気に入らない。だから潰してやる』。ただ、それだけ」
エリアーナの分析は、おそらく正しいだろう。世の中には、自分が豊かになることより、他人の不幸を願う人間がいるものだ。
数日後、事態はさらに悪化した。
領地の境界線をパトロールしていたバルガスが、血相を変えて戻ってきたのだ。
「リオ様! グライフ領の兵士たちが、境界にある川の領有権を主張し、我々の見張りの兵に因縁をつけてきました。小競り合いになり、こちらに怪我人が出ております!」
幸い軽傷だったが、ついに物理的な接触が始まったのだ。
俺はすぐに、バルガスと共に現場へと向かった。
川を挟んで対峙する両軍。数はこちらが上だが、向こうの兵士たちの目は血走り、明らかに好戦的だった。その中心には、肥え太った中年男が馬上にふんぞり返っていた。あれがグライフ子爵だろう。
彼は俺の姿を認めると、嘲るように大声で叫んだ。
「おお、あれがアシュフォードの三男坊か! まるで女のようなガキではないか! そんな小僧に領地を任せるとは、アルフォンス殿も耄碌したものですな!」
下品な笑い声が、グライフ領の兵士たちから上がる。
バルガスが怒りに身を震わせ、剣の柄に手をかけた。俺はそれを、静かに手で制した。
「何の用だ、グライフ子爵。ここは、古くからアシュフォード家の土地のはずだ」
「黙れ、小僧! この川は俺のものだ! 最近、お前たちがよそ者を引き入れて儲けているそうじゃないか。その富は、本来なら俺たちが得るべきものだったのだ! 今すぐこの川の領有権を放棄し、これまでの不当な利益に対する賠償金を支払え! さもなくば、力ずくで奪い取るまでだ!」
あまりにも理不尽な、ヤクザの因縁そのものだった。話し合いなど、最初からする気がないのだ。
俺は冷静に言い返した。
「ここはアシュフォードの土地であり、その富は我々領民が、血と汗で築き上げたものだ。あんたにくれてやるものなど、砂一粒たりともない」
「……ほう。言うようになったではないか、クソガキが」
グライフ子爵の顔から、笑みが消えた。その目に、剥き出しの殺意が宿る。
「いいだろう。その生意気な口が、いつまで利けるか見ものだな。覚えておけ。お前たちのその偽りの繁栄は、もうすぐ終わるのだと」
彼はそう言い放つと、乱暴に馬首を返し、兵を引き連れて去っていった。
それは、事実上の宣戦布告だった。
屋敷に戻り、俺はすぐに父とエリアーナ、バルガスを集めて緊急の会議を開いた。
グライフ子爵とのやり取りを報告すると、父は青い顔で呻いた。
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「おそらく」
俺が答えるより先に、エリアーナが重々しく口を開いた。
「私の情報網が、最悪の報せを掴んできました。グライフ子爵は、最近、王都で悪名高い傭兵団『鉄の爪』を、かなりの高額で雇い入れたようです。さらに、周辺のならず者たちを兵としてかき集め、急速に軍備を増強している、と」
その場の空気が、凍り付いた。傭兵まで雇い入れたとなれば、彼の本気度は疑いようがない。
バルガスが、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「鉄の爪……連中は残忍で、金のためなら何でもやる連中です。略奪や暴行は当たり前。戦い方も、正々堂々とは程遠い。厄介な相手ですぞ」
「彼の狙いは、もう明らかね」とエリアーナが続けた。「私たちの領地そのものを、武力で奪い取り、全てを自分のものにするつもりよ」
これまでの平和な日常は、完全に終わりを告げた。
俺たちが汗水たらして築き上げてきた、この豊かで穏やかな領地が、今、強欲な隣人の手によって蹂躙されようとしている。
領民たちの笑顔。リリアナの笑い声。シルフィの無邪気な好奇心。エリアーナと語り合った未来。バルガスの忠誠。
その全てを、こんな理不尽な暴力に、奪わせてなるものか。
俺の胸の奥で、冷たい炎が静かに燃え上がった。
「……戦争は、避けられないようだな」
俺の静かな呟きに、全員が息を飲む。
「だが、受けて立とう。俺たちが築いてきたこの領地は、俺たちの手で守り抜く」
俺は立ち上がり、窓の外に広がる、雪化粧をした静かな領地を見渡した。
「平和なだけでは、生き残れない。大切なものを守るためには、時に、牙を剥く覚悟が必要になる」
技術者としてのリオ・アシュフォードは、今、この瞬間、領地を守るための司令官へと変貌を遂げなければならなかった。
「エリアーナ、敵の兵力、装備、編成。分かる限りの情報を集めてくれ。バルガス、明日から領民兵の訓練を開始する。父上、領内の食料と資材の管理をお願いします」
矢継ぎ早に指示を出す俺の姿に、戸惑いながらも、皆が力強く頷いた。
アシュフォード領に、静かに戦雲が立ち込め始めていた。
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