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第39話:旅立ちの準備
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国王からの召喚状を受け、王都行きが決まってからの一ヶ月は、嵐のように過ぎ去っていった。
それは、アシュフォード領の未来を賭けた、緻密で、そして膨大な準備期間だった。
俺たちの不在中も領地が揺るがないよう、あらゆる権限の委譲と、業務のマニュアル化を進めた。
父アルフォンスには、領主代理として全体の統括を任せた。彼は、息子の俺が国の中心で戦おうとしていることに、不安を感じながらも、領主としての責任感を奮い立たせ、俺たちの留守を守ることを固く誓ってくれた。
二人の兄、ダリウスとゲオルグには、治安維持と領民兵の管理を任せた。彼らはこれまでの自堕落な態度を改め、バルガスから叩き込まれた軍事教練の基礎を元に、真剣な顔でその役目を引き受けた。俺の活躍を目の当たりにし、彼らなりに思うところがあったのだろう。
農業はゴードンに、工業は鍛冶屋と大工の親方たちに、それぞれ全権を委任した。彼らはもはや、俺の指示がなくとも、自ら考え、問題を解決できるまでに成長していた。
そして、アシュフォード商会の運営は、エリアーナが育て上げた腹心の文官たちに託された。
「いいこと? 私たちが留守の間、少しでも不審な動きがあったら、すぐに王都の拠点へ報告するのよ。金の流れは、常に透明にしておくこと。誰にも、付け入る隙を見せてはダメ」
エリアーナは、まるで鬼教官のように、部下たちに最後の指示を飛ばしていた。
俺たちが作り上げたシステムは、巨大な時計のように、それぞれの歯車が噛み合い、正確に時を刻み続けるだろう。そのことに、俺は確かな自信を持っていた。
一方で、王都へ向かう俺たち自身の準備も、並行して進められた。
バルガスは、旅の護衛として、最も信頼できる部下を数名選抜した。そして、道中のあらゆる危険を想定し、ルートの選定や、野営地の確保について、徹底的なシミュレーションを繰り返していた。
彼の腰には、アシュフォード鋼で特別に打ち直された、新しい長剣が輝いている。それは、どんな名剣にも劣らない、最高の切れ味と強度を誇っていた。
「リオ様、ご安心ください。あなた様の身に、指一本触れさせはしません」
彼の言葉は、絶対的な安心感を俺に与えてくれた。
エリアーナは、王都に持ち込む「手土産」の準備に余念がなかった。
「政治とは、結局のところ、貸しと借りの駆け引きよ。国王に謁見する前に、有力な貴族たちにいくつか『貸し』を作っておく必要があるわ」
彼女が選んだのは、アシュフォードが誇る最高級の製品たちだった。
完璧な透明度を誇る、手鏡サイズのガラス。
貴婦人の肌を傷つけないよう、何度も精製を繰り返した、純白の高級石鹸。
そして、数樽しかない、最高級の醤油と味噌。
これらは、金では買えない価値を持つ。王都の貴族たちが、喉から手が出るほど欲しがる、魔法の品々だ。
「これらを、どの貴族に、どのタイミングで渡すか。それが、私たちの最初の戦いになるわね」
彼女の目は、すでに王都の社交界という戦場を見据えていた。
そして、シルフィ。彼女の準備は、他の誰とも違っていた。
俺は彼女に、一つの特別な「護身具」を作って渡した。
それは、アシュフォード鋼で作られた、一対の腕輪だった。その内側には、俺と彼女が研究を重ねてきた、魔力を増幅し、安定させるための、アーククリスタルと銅線の回路がびっしりと埋め込まれている。
「シルフィ、これは、君の力を守るための道具だ」
俺は、彼女の細い腕に、その腕輪をはめてやりながら言った。
「王都には、君の力を悪用しようとする者がいるかもしれない。あるいは、君の力を無理やり引き出そうとする者も。この腕輪をつけていれば、マナの消耗を最小限に抑え、いざという時には、強力な防御魔法を瞬時に発動させることができるはずだ」
シルフィは、腕にはめられた金属の感触を確かめるように、そっとそれに触れた。
「……ありがとう、リオ。なんだか、リオがいつも一緒にいてくれるみたいで、安心する」
彼女は、はにかんで微笑んだ。その笑顔を守るためなら、俺はどんな危険な場所へも行けると思った。
俺自身の準備は、頭脳労働がほとんどだった。
王都で起こりうる、あらゆる事態を想定する。国王との問答、保守派貴族からの揺さぶり、協力者となる可能性のある人物との接触。それぞれの場面で、どう立ち振る舞い、何を語るべきか。
エリアーナと毎晩のように議論を重ね、俺たちの基本的なスタンスを固めていった。
『我々は、どの派閥にも与しない。我々の技術は、アシュフォード領の、ひいては王国全体の利益のためにのみ使う。我々の目的は、富や権力ではなく、人々の生活を豊かにすることである』
この理想を、いかにして現実の政治力学の中で貫き通すか。それが、俺に課せられた最大の課題だった。
そして、出発の日が来た。
早朝の冷たい空気の中、俺たちの旅の一行は、屋敷の前に集結していた。
俺、エリアーナ、シルフィが乗る、頑丈な幌馬車。
その前後を、バルガス率いる屈強な護衛たちが、馬上で固める。
荷馬車には、エリアーナが選んだ「武器」となる贈答品が、厳重に梱包されて積まれていた。
見送りには、父と母、兄たち、そして領地の主だった者たちが、全員集まっていた。
「リオ、気をつけるのだぞ。決して、無理はするな」
父が、俺の肩を強く掴んだ。その手は、わずかに震えていた。
「大丈夫ですよ、父上。俺たちなら、きっと上手くやれます」
「シルフィちゃん、リリアナのこと、よろしくね!」
リリアナが、馬車の窓から顔を出すシルフィに、涙目で手を振っている。シルフィも、名残惜しそうに、しかし力強く頷き返した。
「エリアーナ様、バルガス殿、どうか、リオ様のこと、よろしくお願いいたします」
父が、深々と頭を下げた。
その姿に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
「出発する!」
バルガスの号令と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
俺は、馬車の窓から、遠ざかっていく故郷の景色を眺めていた。
俺たちが築き上げてきた、この豊かで、穏やかな領地。
この場所を守るために、俺たちは今、旅立つのだ。
王都という、欲望と陰謀が渦巻く、巨大な魔窟へ。
それは、これまでのどんな戦いよりも、危険で、そして困難な道のりになるだろう。
だが、俺の心に、不思議と恐怖はなかった。
隣には、冷徹な頭脳を持つ最高のパートナーがいる。
後ろには、絶対の信頼を置ける最強の剣がいる。
そして、その傍らには、未知の可能性を秘めた、心優しき魔法使いがいる。
最高の仲間たちと共に挑む、最大の挑戦。
そう考えると、胸が躍るのを抑えきれなかった。
「面倒なことになりそうだな」
俺は、隣に座るエリアーナに、いつかと同じ言葉を投げかけた。
彼女は、俺の顔を見て、ふふっと静かに笑った。
「ええ、本当にね。でも、だからこそ、面白いのよ」
その瞳は、これから始まる戦いへの、確かな覚悟と興奮に輝いていた。
俺たちの旅は、今、始まった。
辺境の小さな領地から、国の中心へ。
新しい時代の歯車を、俺たちの手で回すために。
それは、アシュフォード領の未来を賭けた、緻密で、そして膨大な準備期間だった。
俺たちの不在中も領地が揺るがないよう、あらゆる権限の委譲と、業務のマニュアル化を進めた。
父アルフォンスには、領主代理として全体の統括を任せた。彼は、息子の俺が国の中心で戦おうとしていることに、不安を感じながらも、領主としての責任感を奮い立たせ、俺たちの留守を守ることを固く誓ってくれた。
二人の兄、ダリウスとゲオルグには、治安維持と領民兵の管理を任せた。彼らはこれまでの自堕落な態度を改め、バルガスから叩き込まれた軍事教練の基礎を元に、真剣な顔でその役目を引き受けた。俺の活躍を目の当たりにし、彼らなりに思うところがあったのだろう。
農業はゴードンに、工業は鍛冶屋と大工の親方たちに、それぞれ全権を委任した。彼らはもはや、俺の指示がなくとも、自ら考え、問題を解決できるまでに成長していた。
そして、アシュフォード商会の運営は、エリアーナが育て上げた腹心の文官たちに託された。
「いいこと? 私たちが留守の間、少しでも不審な動きがあったら、すぐに王都の拠点へ報告するのよ。金の流れは、常に透明にしておくこと。誰にも、付け入る隙を見せてはダメ」
エリアーナは、まるで鬼教官のように、部下たちに最後の指示を飛ばしていた。
俺たちが作り上げたシステムは、巨大な時計のように、それぞれの歯車が噛み合い、正確に時を刻み続けるだろう。そのことに、俺は確かな自信を持っていた。
一方で、王都へ向かう俺たち自身の準備も、並行して進められた。
バルガスは、旅の護衛として、最も信頼できる部下を数名選抜した。そして、道中のあらゆる危険を想定し、ルートの選定や、野営地の確保について、徹底的なシミュレーションを繰り返していた。
彼の腰には、アシュフォード鋼で特別に打ち直された、新しい長剣が輝いている。それは、どんな名剣にも劣らない、最高の切れ味と強度を誇っていた。
「リオ様、ご安心ください。あなた様の身に、指一本触れさせはしません」
彼の言葉は、絶対的な安心感を俺に与えてくれた。
エリアーナは、王都に持ち込む「手土産」の準備に余念がなかった。
「政治とは、結局のところ、貸しと借りの駆け引きよ。国王に謁見する前に、有力な貴族たちにいくつか『貸し』を作っておく必要があるわ」
彼女が選んだのは、アシュフォードが誇る最高級の製品たちだった。
完璧な透明度を誇る、手鏡サイズのガラス。
貴婦人の肌を傷つけないよう、何度も精製を繰り返した、純白の高級石鹸。
そして、数樽しかない、最高級の醤油と味噌。
これらは、金では買えない価値を持つ。王都の貴族たちが、喉から手が出るほど欲しがる、魔法の品々だ。
「これらを、どの貴族に、どのタイミングで渡すか。それが、私たちの最初の戦いになるわね」
彼女の目は、すでに王都の社交界という戦場を見据えていた。
そして、シルフィ。彼女の準備は、他の誰とも違っていた。
俺は彼女に、一つの特別な「護身具」を作って渡した。
それは、アシュフォード鋼で作られた、一対の腕輪だった。その内側には、俺と彼女が研究を重ねてきた、魔力を増幅し、安定させるための、アーククリスタルと銅線の回路がびっしりと埋め込まれている。
「シルフィ、これは、君の力を守るための道具だ」
俺は、彼女の細い腕に、その腕輪をはめてやりながら言った。
「王都には、君の力を悪用しようとする者がいるかもしれない。あるいは、君の力を無理やり引き出そうとする者も。この腕輪をつけていれば、マナの消耗を最小限に抑え、いざという時には、強力な防御魔法を瞬時に発動させることができるはずだ」
シルフィは、腕にはめられた金属の感触を確かめるように、そっとそれに触れた。
「……ありがとう、リオ。なんだか、リオがいつも一緒にいてくれるみたいで、安心する」
彼女は、はにかんで微笑んだ。その笑顔を守るためなら、俺はどんな危険な場所へも行けると思った。
俺自身の準備は、頭脳労働がほとんどだった。
王都で起こりうる、あらゆる事態を想定する。国王との問答、保守派貴族からの揺さぶり、協力者となる可能性のある人物との接触。それぞれの場面で、どう立ち振る舞い、何を語るべきか。
エリアーナと毎晩のように議論を重ね、俺たちの基本的なスタンスを固めていった。
『我々は、どの派閥にも与しない。我々の技術は、アシュフォード領の、ひいては王国全体の利益のためにのみ使う。我々の目的は、富や権力ではなく、人々の生活を豊かにすることである』
この理想を、いかにして現実の政治力学の中で貫き通すか。それが、俺に課せられた最大の課題だった。
そして、出発の日が来た。
早朝の冷たい空気の中、俺たちの旅の一行は、屋敷の前に集結していた。
俺、エリアーナ、シルフィが乗る、頑丈な幌馬車。
その前後を、バルガス率いる屈強な護衛たちが、馬上で固める。
荷馬車には、エリアーナが選んだ「武器」となる贈答品が、厳重に梱包されて積まれていた。
見送りには、父と母、兄たち、そして領地の主だった者たちが、全員集まっていた。
「リオ、気をつけるのだぞ。決して、無理はするな」
父が、俺の肩を強く掴んだ。その手は、わずかに震えていた。
「大丈夫ですよ、父上。俺たちなら、きっと上手くやれます」
「シルフィちゃん、リリアナのこと、よろしくね!」
リリアナが、馬車の窓から顔を出すシルフィに、涙目で手を振っている。シルフィも、名残惜しそうに、しかし力強く頷き返した。
「エリアーナ様、バルガス殿、どうか、リオ様のこと、よろしくお願いいたします」
父が、深々と頭を下げた。
その姿に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
「出発する!」
バルガスの号令と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
俺は、馬車の窓から、遠ざかっていく故郷の景色を眺めていた。
俺たちが築き上げてきた、この豊かで、穏やかな領地。
この場所を守るために、俺たちは今、旅立つのだ。
王都という、欲望と陰謀が渦巻く、巨大な魔窟へ。
それは、これまでのどんな戦いよりも、危険で、そして困難な道のりになるだろう。
だが、俺の心に、不思議と恐怖はなかった。
隣には、冷徹な頭脳を持つ最高のパートナーがいる。
後ろには、絶対の信頼を置ける最強の剣がいる。
そして、その傍らには、未知の可能性を秘めた、心優しき魔法使いがいる。
最高の仲間たちと共に挑む、最大の挑戦。
そう考えると、胸が躍るのを抑えきれなかった。
「面倒なことになりそうだな」
俺は、隣に座るエリアーナに、いつかと同じ言葉を投げかけた。
彼女は、俺の顔を見て、ふふっと静かに笑った。
「ええ、本当にね。でも、だからこそ、面白いのよ」
その瞳は、これから始まる戦いへの、確かな覚悟と興奮に輝いていた。
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