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第62話:空への憧れ
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王都に不穏な空気が立ち込める中、俺の研究開発は一刻の猶予も許されない状況にあった。
電信網の全国的な敷設プロジェクトは、クラウスの後押しもあって驚異的なスピードで進められている。だが、完成までにはまだ数ヶ月を要するだろう。
それまでに、マリウス公爵と、その背後にいるであろう何者かが行動を起こす可能性は高い。
俺は開発室に籠る時間をさらに増やし、来るべき危機に備えるための新たな技術開発に没頭していた。
魔導蒸気機関のさらなる小型化と高効率化。
アシュフォード鋼を使った、より強固な装甲板の研究。
そして、黒色火薬を応用した新しい兵器の設計。
頭の中は常に戦いのことばかりだった。どうすれば、この国を、仲間たちを守れるか。その重圧が、俺の両肩に重くのしかかっていた。
そんなある日の夜。
連日の激務で疲れ果てた俺は、気分転換に屋敷の屋上へと続く螺旋階段を上った。
王都の夜はまだ暗い。電灯が発明されるのは、もう少し先の話だ。だが、月明かりに照らされた王都の街並みは昼間とは違う、静かな美しさを持っていた。
「……リオ」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのはシルフィだった。彼女は薄い寝間着の上に毛布を羽織り、少し心配そうな顔で俺を見ていた。
「眠れないのか?」
「ううん。リオが、なんだかすごく疲れてる顔をしてたから。気になって」
彼女はそっと俺の隣に立つと、同じように夜空を見上げた。
満月が、まるで銀の皿のように夜空に輝いている。その周りには、宝石をちりばめたように無数の星が瞬いていた。
「……綺麗だね」
シルフィがぽつりと呟いた。
「うん。綺麗だな」
俺たちはしばらくの間、言葉もなく、ただ静かに夜空を眺めていた。
それは張り詰めていた俺の心を、少しだけ和らげてくれる穏やかな時間だった。
やがてシルフィが、子供のような純粋な好奇心で俺に尋ねてきた。
「ねえ、リオ。あのお月様や、お星様には、どうやったら行けるのかな?」
「どうやったら、か」
俺は苦笑した。それは、人類が何千年もの間抱き続けてきた素朴で、そして壮大な問いだ。
「簡単には行けないさ。あそこに行くには、この大地が引っ張る、とても強い力から逃げ出さなければならないからな」
「大地が引っ張る力?」
「ああ。重力っていうんだ。君がいつも地面に立っていられるのも、リンゴが木から落ちるのも、全部この大地が全てのものを中心に向かって引っ張り続けているからなんだよ」
俺はニュートンの万有引力の法則を、彼女に分かるように簡単な言葉で説明した。
シルフィは目を丸くして、俺の話に聞き入っていた。
「へええ……。じゃあ、鳥さんたちが空を飛べるのは、その『じゅうりょく』に羽の力で逆らっているからなの?」
「その通りだ。よく分かったな」
俺が彼女の頭を撫でると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
そして、彼女はとんでもないことを言い出した。
「じゃあさ、私たちも鳥さんみたいに、大きな羽を作れば空を飛べるのかな?」
空を飛ぶ。
その言葉は、俺の頭の中に忘れかけていたもう一つの憧れを、鮮やかに蘇らせた。
ライト兄弟、リリエンタール、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチ。
前世の歴史において、多くの天才たちがその生涯をかけて挑んできた、人類の最も偉大な夢。
「……大きな羽だけじゃ、難しいだろうな」
俺は自分の顎を撫でながら、思考を巡らせた。「人間の体は鳥に比べて重すぎる。自分の筋力だけで羽ばたいて体を持ち上げるのは、不可能に近い」
「そっかあ。残念……」
しょんぼりするシルフィを見て、俺は悪戯っぽく笑った。
「だが、方法がないわけじゃない」
俺は近くにあった木炭を拾うと、屋上の床に一つの簡単な絵を描き始めた。
それは大きな布の袋の下に、火を焚くための籠がぶら下がっている絵だった。
「これは、何?」
「熱気球だ」
俺はアルキメデスの原理を、彼女に説明した。
「空気は温められると軽くなる性質がある。この大きな袋の中で火を焚いて、中の空気を温め続ければ、袋は周りの冷たい空気よりも軽くなって、まるで水の中の泡のように空へと浮かび上がっていくんだ」
羽ばたくのではない。浮かび上がるのだ。
それはこの世界の誰もが思いつきもしなかった、全く新しい空へのアプローチだった。
シルフィは俺が描いた絵と俺の顔を、キラキラとした瞳で交互に見つめていた。
「……浮かび、上がる……? 本当に、そんなことができるの?」
「ああ、できるさ。いつか、必ずな」
俺は彼女に約束するように言った。
今は、そんなことに時間を割いている余裕はない。目の前には、解決しなければならない問題が山のようにある。
だが、いつか。
この国の平和を取り戻し、人々の暮らしが豊かになった、その時には。
必ず、この熱気気球を作ってみせよう。そして、シルフィを、エリアーナを、仲間たちを乗せてこの王都の空を、雄大に飛んでみせるのだ。
それは、俺の心の中に生まれた新しい夢だった。
戦争のことばかりを考えて、ささくれ立っていた俺の心にその夢は温かい光を灯してくれた。
「いつか、空も飛べるようになるだろうか」
俺はシルフィに語りかけるように、そして自分自身に問いかけるように呟いた。
「うん、きっと飛べるよ!」
シルフィは何の疑いもなく、満面の笑みで答えた。「だって、リオが作るんだもん!」
彼女のその、根拠のない、しかし絶対的な信頼が何よりも俺の力になった。
そうだ。
俺ならできる。
空だって、飛べるはずだ。
そのためにも、まずはこの目の前の薄汚い地上の争いを、さっさと終わらせてしまわなければ。
俺は眼下に広がる王都の夜景を見下ろした。その闇の奥で蠢いているであろう、敵の姿を思い浮かべながら。
俺は静かに、しかし力強く、空への誓いを新たにした。
この手で平和な未来を掴み取り、そしていつか必ず、この世界の誰も見たことのない空からの景色を、仲間たちに見せてやるのだと。
それは多忙な開発の合間に訪れた、束の間の、しかし何よりも大切な夜の出来事だった。
電信網の全国的な敷設プロジェクトは、クラウスの後押しもあって驚異的なスピードで進められている。だが、完成までにはまだ数ヶ月を要するだろう。
それまでに、マリウス公爵と、その背後にいるであろう何者かが行動を起こす可能性は高い。
俺は開発室に籠る時間をさらに増やし、来るべき危機に備えるための新たな技術開発に没頭していた。
魔導蒸気機関のさらなる小型化と高効率化。
アシュフォード鋼を使った、より強固な装甲板の研究。
そして、黒色火薬を応用した新しい兵器の設計。
頭の中は常に戦いのことばかりだった。どうすれば、この国を、仲間たちを守れるか。その重圧が、俺の両肩に重くのしかかっていた。
そんなある日の夜。
連日の激務で疲れ果てた俺は、気分転換に屋敷の屋上へと続く螺旋階段を上った。
王都の夜はまだ暗い。電灯が発明されるのは、もう少し先の話だ。だが、月明かりに照らされた王都の街並みは昼間とは違う、静かな美しさを持っていた。
「……リオ」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのはシルフィだった。彼女は薄い寝間着の上に毛布を羽織り、少し心配そうな顔で俺を見ていた。
「眠れないのか?」
「ううん。リオが、なんだかすごく疲れてる顔をしてたから。気になって」
彼女はそっと俺の隣に立つと、同じように夜空を見上げた。
満月が、まるで銀の皿のように夜空に輝いている。その周りには、宝石をちりばめたように無数の星が瞬いていた。
「……綺麗だね」
シルフィがぽつりと呟いた。
「うん。綺麗だな」
俺たちはしばらくの間、言葉もなく、ただ静かに夜空を眺めていた。
それは張り詰めていた俺の心を、少しだけ和らげてくれる穏やかな時間だった。
やがてシルフィが、子供のような純粋な好奇心で俺に尋ねてきた。
「ねえ、リオ。あのお月様や、お星様には、どうやったら行けるのかな?」
「どうやったら、か」
俺は苦笑した。それは、人類が何千年もの間抱き続けてきた素朴で、そして壮大な問いだ。
「簡単には行けないさ。あそこに行くには、この大地が引っ張る、とても強い力から逃げ出さなければならないからな」
「大地が引っ張る力?」
「ああ。重力っていうんだ。君がいつも地面に立っていられるのも、リンゴが木から落ちるのも、全部この大地が全てのものを中心に向かって引っ張り続けているからなんだよ」
俺はニュートンの万有引力の法則を、彼女に分かるように簡単な言葉で説明した。
シルフィは目を丸くして、俺の話に聞き入っていた。
「へええ……。じゃあ、鳥さんたちが空を飛べるのは、その『じゅうりょく』に羽の力で逆らっているからなの?」
「その通りだ。よく分かったな」
俺が彼女の頭を撫でると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
そして、彼女はとんでもないことを言い出した。
「じゃあさ、私たちも鳥さんみたいに、大きな羽を作れば空を飛べるのかな?」
空を飛ぶ。
その言葉は、俺の頭の中に忘れかけていたもう一つの憧れを、鮮やかに蘇らせた。
ライト兄弟、リリエンタール、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチ。
前世の歴史において、多くの天才たちがその生涯をかけて挑んできた、人類の最も偉大な夢。
「……大きな羽だけじゃ、難しいだろうな」
俺は自分の顎を撫でながら、思考を巡らせた。「人間の体は鳥に比べて重すぎる。自分の筋力だけで羽ばたいて体を持ち上げるのは、不可能に近い」
「そっかあ。残念……」
しょんぼりするシルフィを見て、俺は悪戯っぽく笑った。
「だが、方法がないわけじゃない」
俺は近くにあった木炭を拾うと、屋上の床に一つの簡単な絵を描き始めた。
それは大きな布の袋の下に、火を焚くための籠がぶら下がっている絵だった。
「これは、何?」
「熱気球だ」
俺はアルキメデスの原理を、彼女に説明した。
「空気は温められると軽くなる性質がある。この大きな袋の中で火を焚いて、中の空気を温め続ければ、袋は周りの冷たい空気よりも軽くなって、まるで水の中の泡のように空へと浮かび上がっていくんだ」
羽ばたくのではない。浮かび上がるのだ。
それはこの世界の誰もが思いつきもしなかった、全く新しい空へのアプローチだった。
シルフィは俺が描いた絵と俺の顔を、キラキラとした瞳で交互に見つめていた。
「……浮かび、上がる……? 本当に、そんなことができるの?」
「ああ、できるさ。いつか、必ずな」
俺は彼女に約束するように言った。
今は、そんなことに時間を割いている余裕はない。目の前には、解決しなければならない問題が山のようにある。
だが、いつか。
この国の平和を取り戻し、人々の暮らしが豊かになった、その時には。
必ず、この熱気気球を作ってみせよう。そして、シルフィを、エリアーナを、仲間たちを乗せてこの王都の空を、雄大に飛んでみせるのだ。
それは、俺の心の中に生まれた新しい夢だった。
戦争のことばかりを考えて、ささくれ立っていた俺の心にその夢は温かい光を灯してくれた。
「いつか、空も飛べるようになるだろうか」
俺はシルフィに語りかけるように、そして自分自身に問いかけるように呟いた。
「うん、きっと飛べるよ!」
シルフィは何の疑いもなく、満面の笑みで答えた。「だって、リオが作るんだもん!」
彼女のその、根拠のない、しかし絶対的な信頼が何よりも俺の力になった。
そうだ。
俺ならできる。
空だって、飛べるはずだ。
そのためにも、まずはこの目の前の薄汚い地上の争いを、さっさと終わらせてしまわなければ。
俺は眼下に広がる王都の夜景を見下ろした。その闇の奥で蠢いているであろう、敵の姿を思い浮かべながら。
俺は静かに、しかし力強く、空への誓いを新たにした。
この手で平和な未来を掴み取り、そしていつか必ず、この世界の誰も見たことのない空からの景色を、仲間たちに見せてやるのだと。
それは多忙な開発の合間に訪れた、束の間の、しかし何よりも大切な夜の出来事だった。
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