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第4章
35 過去の当事者
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壁掛けタイプの照明をぼんやり眺めた。
グラスカッティングされた模様が暗闇の中で壁に映り、淡く浮かび上がっている。
まだ薄暗く、まだ夜明け前だと気づいた。
――お水、飲みたい。
起き上がろうとして、体の至るところに赤い痕が残っていることに気づき、慌てて乱れたパジャマを直した。
玲我さんのパジャマは大きすぎて、直してもすぐに胸元が見えてしまう。
昨晩、玲我さんは私の体に執拗なまでにキスをしていたから、私の見えない場所にも残っている。
それを思い出し、頬が熱くなるのがわかった。
――わ、私はもう大人だし、これくらいで動じてどうするの!
水を飲みにベッドから出ようとし時、横のベッドサイドテーブルにミネラルウォーターが置かれていることに気づいた。
私が目覚めた時に飲めるように用意されていた。
まるで、目を覚ました私が欲しがるだろうと、わかっていたみたいに――冷たい水は喉を通り、体の熱を冷ましてくれる。
水を飲み終わり、ベッドのほうへ視線をやると、玲我さんが眠っている姿が見えた。
長い睫毛と整った顔立ち――王子様と呼ばれていたけど、今でもじゅうぶん王子様だった。
――綺麗な顔。
思えば、玲我さんの顔をジッと見る機会はなかった。
起きている時の玲我さんは隙がないし、私を見つめるから、つい目を逸らしてしまう。
だから、これはチャンス。
――チャンスってなんの?
「ん……? 夕愛……?」
「違います! お、襲おうなんて考えてませんから!」
「……襲う? 俺を?」
玲我さんはくすりと笑って腕をつかむと、自分のそばへ私の体を引き寄せた。
「どうぞ?」
「で、できませっ……んっ……!」
どさくさに紛れて、『もうしない』と約束したキスをした。
昨晩、息をするのが苦しくて、キス禁止を言い渡したばかりなのに、もう破られた。
「もうしないって約束したじゃないですか!」
「昨日の夜はね? もう朝だから無効だと思うけど?」
「まだ夜が明けてません……!」
「じゃあ、続きを」
笑いながら、玲我さんは私の首筋に唇を滑らせ、髪と頬の間に手を滑り込ませた。
私の目を覗き込む瞳があまりに綺麗で胸が苦しくなった。
「冗談だよ。そんなにらまなくても」
にらんでいたんじゃなくて、玲我さんの顔に見惚れていましたとは言えなかった。
そのままベッドに寝転んで、私と玲我さんは夜明けまで会話する。
「夕愛。今日の予定は?」
「私の予定ですか? 今日は和花子さんが料理を教えてほしいそうなので、都久山の有近家へお邪魔する予定です」
「……キャンセルで」
「えっ! で、でも、楽しみにされてますから!」
「どうせ、その後、夕愛を買い物か観劇に誘ってるだろう?」
「それはっ……」
さすが、玲我さんは和花子さんの息子だけあって当たっている。
口ごもった私に、玲我さんはため息をついた。
「母さんに付き合うのはほどほどでいい。すごくヒマな人だからな」
「それは誤解です。和花子さんの交友関係は幅広いですし、お義父様も和花子さんの社交性に助けられていると思いますよ」
「そうか?」
「和花子さんが頻繁に通うのは、演奏家や役者さんのご贔屓さんになって、チケットを融通していただくためでもあるんです」
都久山の奥様は趣味を多く持っている方が多い。
会話を楽しむには、幅広い趣味の知識を必要とする。
「チケットはご自分のためじゃなく、取引先の奥様や都久山の奥様に配られています。お茶会は嫁いできた奥様が、都久山に溶け込めるよう配慮されているからなんですよ」
男性にはわからない女性ならではの繋がりがある。
特に都久山の奥様たちは、細やかな配慮を好むのだ。
『デキる奥様』とは、和花子さんのような方を言う――というか、都久山では当たり前の光景で、オグラの料理を配達したり、お話をうかがうことが多かったからか、玲我さんのように否定的な気持ちにはならなかった。
「なるほどね……。けど、限度がある。週に何度も通って負担になってるだろう? それに俺より会ってないか?」
「そう言われたら、玲我さんより会っているかもしれません……」
玲我さんはそうだろうとうなずいた。
「母さんには悪いが、今日は料亭『加々見』へ行く」
それは母方の家が経営する料亭の名だった。
母方の祖母は、何度か会ったことがあるけれど、いつも険しい表情で、とても厳しい人という印象があった。
「苦手?」
「あっ……! いえ、そうですね……」
なかなか返事をしなかった私に、玲我さんは気づき、くすりと笑った。
「過去を語るなら、俺の口からだけじゃなく、公平に当事者からも語られたほうがいいと思った」
今まで穏やかな表情をしていたのに、暗闇の中で玲我さんは険しい横顔を見せた。
「加々見の祖母は当事者なんですか?」
「ああ。早恵さんから海寿を奪ったのは鷹沢だが、都久山へ連れていったのは加々見だ」
玲我さんが『公平に』と言ったのは、よほどのことだ。
つまり、玲我さんは加々見の祖母の対応をよしとしていない。
しかも、鷹沢がお母さんから海寿さんを奪ったというのも気になる。
「今でこそ鷹沢の正妻は都久山に住んでいるが、嫁いだ当初は体が弱く、自分の実家で療養していることが多かったらしい。両親が話していたのを聞いたことがある」
「都久山で暮らし始めたのは、海寿さんを自分の子供として育て始めたから……?」
「そうだと思う」
夫から愛されないとわかっていても、家同士のしがらみから別れられなかった海宏さんと鷹沢の奥様――その二人を繋ぎとめるために、鷹沢は海寿さんをお母さんから奪ったのだ。
「そんなの……あんまりです! どうして、加々見の祖母は鷹沢に海寿さんを渡したんですか?」
「俺は理由までわからない。起きたことしか知ることができなかったからな」
「玲我さんは祖母に話は聞いたんですよね?」
「聞いたが……」
玲我さんは納得していない顔をしていた。
「夕愛と一緒に行けば、俺が聞いた時と違うことを語るかもしれないと……期待してる」
両親が亡くなって以来、加々見とは疎遠になっていた。
祖母と母の間にある空気は、ぎくしゃくとした空気があり、子供ながらに二人の関係があまりよくないものだと察していた。
そんな祖母の口から語られる過去の話は、素敵な思い出話ではなさそうだ。
「……わかりました。祖母のところへ行って話を聞きます」
加々見の祖母が語る過去――それは、私が知らない母と海寿さんの時間だった。
グラスカッティングされた模様が暗闇の中で壁に映り、淡く浮かび上がっている。
まだ薄暗く、まだ夜明け前だと気づいた。
――お水、飲みたい。
起き上がろうとして、体の至るところに赤い痕が残っていることに気づき、慌てて乱れたパジャマを直した。
玲我さんのパジャマは大きすぎて、直してもすぐに胸元が見えてしまう。
昨晩、玲我さんは私の体に執拗なまでにキスをしていたから、私の見えない場所にも残っている。
それを思い出し、頬が熱くなるのがわかった。
――わ、私はもう大人だし、これくらいで動じてどうするの!
水を飲みにベッドから出ようとし時、横のベッドサイドテーブルにミネラルウォーターが置かれていることに気づいた。
私が目覚めた時に飲めるように用意されていた。
まるで、目を覚ました私が欲しがるだろうと、わかっていたみたいに――冷たい水は喉を通り、体の熱を冷ましてくれる。
水を飲み終わり、ベッドのほうへ視線をやると、玲我さんが眠っている姿が見えた。
長い睫毛と整った顔立ち――王子様と呼ばれていたけど、今でもじゅうぶん王子様だった。
――綺麗な顔。
思えば、玲我さんの顔をジッと見る機会はなかった。
起きている時の玲我さんは隙がないし、私を見つめるから、つい目を逸らしてしまう。
だから、これはチャンス。
――チャンスってなんの?
「ん……? 夕愛……?」
「違います! お、襲おうなんて考えてませんから!」
「……襲う? 俺を?」
玲我さんはくすりと笑って腕をつかむと、自分のそばへ私の体を引き寄せた。
「どうぞ?」
「で、できませっ……んっ……!」
どさくさに紛れて、『もうしない』と約束したキスをした。
昨晩、息をするのが苦しくて、キス禁止を言い渡したばかりなのに、もう破られた。
「もうしないって約束したじゃないですか!」
「昨日の夜はね? もう朝だから無効だと思うけど?」
「まだ夜が明けてません……!」
「じゃあ、続きを」
笑いながら、玲我さんは私の首筋に唇を滑らせ、髪と頬の間に手を滑り込ませた。
私の目を覗き込む瞳があまりに綺麗で胸が苦しくなった。
「冗談だよ。そんなにらまなくても」
にらんでいたんじゃなくて、玲我さんの顔に見惚れていましたとは言えなかった。
そのままベッドに寝転んで、私と玲我さんは夜明けまで会話する。
「夕愛。今日の予定は?」
「私の予定ですか? 今日は和花子さんが料理を教えてほしいそうなので、都久山の有近家へお邪魔する予定です」
「……キャンセルで」
「えっ! で、でも、楽しみにされてますから!」
「どうせ、その後、夕愛を買い物か観劇に誘ってるだろう?」
「それはっ……」
さすが、玲我さんは和花子さんの息子だけあって当たっている。
口ごもった私に、玲我さんはため息をついた。
「母さんに付き合うのはほどほどでいい。すごくヒマな人だからな」
「それは誤解です。和花子さんの交友関係は幅広いですし、お義父様も和花子さんの社交性に助けられていると思いますよ」
「そうか?」
「和花子さんが頻繁に通うのは、演奏家や役者さんのご贔屓さんになって、チケットを融通していただくためでもあるんです」
都久山の奥様は趣味を多く持っている方が多い。
会話を楽しむには、幅広い趣味の知識を必要とする。
「チケットはご自分のためじゃなく、取引先の奥様や都久山の奥様に配られています。お茶会は嫁いできた奥様が、都久山に溶け込めるよう配慮されているからなんですよ」
男性にはわからない女性ならではの繋がりがある。
特に都久山の奥様たちは、細やかな配慮を好むのだ。
『デキる奥様』とは、和花子さんのような方を言う――というか、都久山では当たり前の光景で、オグラの料理を配達したり、お話をうかがうことが多かったからか、玲我さんのように否定的な気持ちにはならなかった。
「なるほどね……。けど、限度がある。週に何度も通って負担になってるだろう? それに俺より会ってないか?」
「そう言われたら、玲我さんより会っているかもしれません……」
玲我さんはそうだろうとうなずいた。
「母さんには悪いが、今日は料亭『加々見』へ行く」
それは母方の家が経営する料亭の名だった。
母方の祖母は、何度か会ったことがあるけれど、いつも険しい表情で、とても厳しい人という印象があった。
「苦手?」
「あっ……! いえ、そうですね……」
なかなか返事をしなかった私に、玲我さんは気づき、くすりと笑った。
「過去を語るなら、俺の口からだけじゃなく、公平に当事者からも語られたほうがいいと思った」
今まで穏やかな表情をしていたのに、暗闇の中で玲我さんは険しい横顔を見せた。
「加々見の祖母は当事者なんですか?」
「ああ。早恵さんから海寿を奪ったのは鷹沢だが、都久山へ連れていったのは加々見だ」
玲我さんが『公平に』と言ったのは、よほどのことだ。
つまり、玲我さんは加々見の祖母の対応をよしとしていない。
しかも、鷹沢がお母さんから海寿さんを奪ったというのも気になる。
「今でこそ鷹沢の正妻は都久山に住んでいるが、嫁いだ当初は体が弱く、自分の実家で療養していることが多かったらしい。両親が話していたのを聞いたことがある」
「都久山で暮らし始めたのは、海寿さんを自分の子供として育て始めたから……?」
「そうだと思う」
夫から愛されないとわかっていても、家同士のしがらみから別れられなかった海宏さんと鷹沢の奥様――その二人を繋ぎとめるために、鷹沢は海寿さんをお母さんから奪ったのだ。
「そんなの……あんまりです! どうして、加々見の祖母は鷹沢に海寿さんを渡したんですか?」
「俺は理由までわからない。起きたことしか知ることができなかったからな」
「玲我さんは祖母に話は聞いたんですよね?」
「聞いたが……」
玲我さんは納得していない顔をしていた。
「夕愛と一緒に行けば、俺が聞いた時と違うことを語るかもしれないと……期待してる」
両親が亡くなって以来、加々見とは疎遠になっていた。
祖母と母の間にある空気は、ぎくしゃくとした空気があり、子供ながらに二人の関係があまりよくないものだと察していた。
そんな祖母の口から語られる過去の話は、素敵な思い出話ではなさそうだ。
「……わかりました。祖母のところへ行って話を聞きます」
加々見の祖母が語る過去――それは、私が知らない母と海寿さんの時間だった。
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