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第4章
36 鷹沢の子 ※海寿
――父が死んだ。
ただ一つの恋を守るために周囲を振り回し、傷つけ続けた男が亡くなり、それで皆が幸せになれるとは限らない。
鷹沢の母は父が死んでから、ずっと寝込んだままだ。
父さんを見限って、離れれば幸せになれただろうに、なかば意地のように好きで居続けた。
俺はこの都久山に連れてこられた日を忘れてない――加々見の祖母に手を引かれ、長い坂を上ったのを覚えている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
熱を出して倒れたお母さんは、アパートの住人に発見されて実家へ戻された。
お母さんは『かろう』と言われて、病院に入院して、ぼくだけ加々見の家に連れてこられた。
加々見の家は、みんながぼくを冷たい目で見ていて、邪魔なのかなと思ったけど、それとも少し違う。
「早恵の将来を考えたら、海寿はいないほうがいいんですよ」
おばあちゃんが誰かと話しているのを聞いて、ぼくに向けられた目の理由を知った。
――ぼくはいないほうがいい子……
「海寿。これから、都久山へ行きますよ」
「つくやま……?」
「そう」
おばあちゃんはお母さんが入院している間に、ぼくとお母さんの『これから』を決めてしまった。
ぼくにコートを着せ、帽子と手袋をはめさせると、雪が舞う中、外に出て加々見のおばあちゃんと二人で、電車に乗った。
――ぼくは捨てられるんだ。
「あなたのお父さんのところへ連れていってあげましょうね。覚えていないでしょうけど、赤ちゃんの時は一緒に暮らしていたのよ」
お父さんがいるところは、『つくやま』というらしい。
おばあちゃんは黙ったまま、長い坂を上り、ぼくが遅れそうになると、強く手を引っ張った。
おばあちゃんは早くぼくを捨てたい――そんな気持ちが伝わってきて、引っ張られた手が痛くても、ぼくはなにも言えなかった。
「ほら、ごらんなさい。あなたのお父さんの家は立派な家でしょう? なに不自由なく暮らせるわよ。よかったわねぇ」
――ぜんぜんよくない。ぼくは小さいアパートでいいから、お母さんと一緒に暮らしたい。
長い坂を上りきったところに、お父さんの家があった。
大きなお屋敷の前で、おばあちゃんがインターホンを押すと、玄関の戸が開き、人が出てきた。
お屋敷から出てきたのは、とても綺麗な着物を着た女の人で、ぼくに近寄り、顔をまじまじと見つめてにっこり微笑んだ。
「まあ! 言ってた通り! 本当ね。とっても海宏さんに似ているわ」
女の人はキラキラした目でぼくを見る。
この女の人の目を知っている。
ぼくくらいの子供が、お気に入りのお人形を見つけた時みたいな目だ。
手を叩いて、少女のように笑う。
「嬉しい! この子が私の子供になるのね?」
「ええ。海寿はお渡ししますけど、約束は守っていただきますよ」
「わかっているわ。そちらもね?」
「もちろんです。では、私はこれで失礼します。電車の時間もありますしね」
おばあちゃんはホッとした顔して、ぼくの手を離すと、一人で坂の下をおりていった。
背中がどんどん遠ざかっていく――追いかけることができなかったのは、おばあちゃんはぼくが帰りたいと言っても、きっとここへ置いていくだろうとわかっていたからだ。
「大旦那様と旦那様が戻るのは夜なんですよ。それまで、お部屋で待っていましょうね」
「賢そうな子供ですこと。海宏さんの血を引いているだけありますねぇ」
「小椋さんのケーキがあるんですよ。今、準備して持ってきましょう」
お手伝いさんだろうか。
たくさんの人がお屋敷の中にいた。
「今日からあなたは鷹沢の子よ」
「たかざわ……」
「そう、鷹沢。私があなたのお母さんになるの。海寿さん、よろしくね」
――お母さんじゃないのに、お母さんになるの?
目の前の女性はずっと笑っていて、どこか病的で怖かった。
周りも腫れ物にさわるかのようにして気遣っている。
おかしいと思うのに、時間はかからなかった。
――嫌だ。ぼくのお母さんはこの人じゃない!
ぼくのお茶とケーキを用意するのに、キッチンへ全員が入ったのを見計らって、家を飛び出した。
今ならまだ帰り道を覚えてる。
お母さんに会って、アパートへ帰ろうって言おう。
鷹沢の家から逃げた。
坂の下を走っておりていく。
雪が降っていても、冷たいと思わなかった。
「お母さん……! お母さんっ……!」
今日、初めて大きな声が出た。
呼んでも、お母さんに届かないってわかっていた。
それでも、呼んだ。
坂の下までやっとたどり着き、そして気づいた。
――電車に乗るお金がない。
お母さんのところへに帰れないんだとわかって、目の前が涙でにじんだ。
「帰りたい……帰りたいよ……」
加々見でも鷹沢でもない、ぼくとお母さんの家に帰りたい。
――お願い、お母さん。
お屋敷じゃなくて、小さなアパートの部屋でいいから、ぼくを捨てないでほしい……
涙が次から次へとこぼれて止まらない。
どうしていいかわからずにいると――
「大変だ! 子供が泣いてるぞ。迷子かな?」
すぐそばの店のドアが開き、暖かい空気と一緒に甘いお菓子の香りが顔にかかった。
くせっ毛にメガネをかけた優しそうなおじさんは、泣いているぼくを見て、にこっと笑う。
「泣かなくていいんだよ」
優しい目をしたおじさんは、ぼくと同じ目線までかがんで尋ねた。
「家はどこだい? おじさんが探してあげるから大丈夫だよ」
「ぼくの家は……」
お母さんと住んでいたアパートに連れていってもらおうと思った時、おばあちゃんが言った言葉を思い出した。
『海寿はいないほうがいいんですよ』
――ぼくはお母さんのそばにいちゃいけない。
優しいお母さんが死んだら、ぼくのせい。
お母さんと住んでいた家へ帰りたいけど帰れない。
「たかざわ」
「うん?」
「たかざわです。坂の上にある家が、ぼくの家です……」
「ああ。鷹沢の子か! 小さいのによく名前を言えたな。偉いぞ!」
頭をわしわしと撫でられた。
そして、泣き顔のぼくの前に綺麗な缶を見せた。
「メリークリスマス!」
「もうクリスマスは終わったよ……?」
「ぐっ……! ま、まぁ、そうなんだけど……。試作品を作ったんだけどね。今年のクリスマスに間に合わなかったんだ……」
ははっとおじさんは笑って、指で頬をかいた。
「おじさんが修行で行っていた国のキャンディでね。ちょっと試しに作ってみたんだ」
ぼくの口にキャンディを一つ放り込み、綺麗なキャンディ缶をポケットにいれてくれた。
「甘いものを食べると、悲しい気持ちが少しだけ消えるよ。ほら、食べてごらん?」
「あまい……」
「はははは。ちょっと甘すぎたかな?」
おじさんが言った通り、涙は止まり、苦しかった気持ちは少しだけ消えた。
「『オグラ』へいつでもおいで。またお菓子をあげよう」
甘いお菓子の香りがする優しいおじさん。この人がいる場所が『オグラ』。
ぼくの手を優しく握って、おじさんは一緒に長い坂を歩いてくれた。
温かくて甘くて、ぼくはこんな優しい大人もいるんだって知った。
やがて、このおじさんとお母さんが結婚して、ぼくに妹ができるなんて、この時は少しも思っていなかった――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――小椋の母は幸せだったと思う。
黒いネクタイをしめた。
鏡の中に映る自分は、嫌になるくらい父親に似ていた。
自分の姿から目をそらして部屋を出ると、ちょうど台所仕事を任せている家政婦と出会った。
「海寿さん。小椋さんが挨拶をしたいと言っているのですが、いかがされますか?」
「会うよ」
――小椋さんは昨日やってきて、挨拶したはずだけど、配達に来た料理人か?
父が死んでから、弔問客がひっきりなしに訪れていた。
親戚も多く、彼らの食事は『オグラ』に料理を頼んである。
だから、挨拶に来たのは小椋さんが一番早かった。
配達に来た料理人も古くから勤めている人が多い。だから、挨拶したいと言うのは、なにも不思議じゃない――
「笑茉ちゃん?」
「裏口からすみません。『オグラ』のコネを使いました」
「コネ? ああ、なるほど」
『オグラ』のきまりで、鷹沢には料理人が配達することになっている。
――母や夕愛が鷹沢に関わらないようにするために、内々に決められたルールだ。
それを知っている人間は少ない。
笑茉ちゃんは五十住と一緒に来たらしく、配達用の車のそばにいた五十住が、軽く頭を下げた。
「忙しいってわかっていたんですけど、海寿さんがどうしているか気になって……」
「俺が好きだから?」
きっと顔を赤くして慌てるに違いないと思った。
けれど、彼女は違った。
「そうです」
「気持ちを言い当てられたら、少しは動揺するものだと思うけど?」
「嘘を言っても、きっと海寿さんにはバレてしまいますし、それなら隠す意味はないなって思いまして」
「素直すぎるね」
ここまではっきり言われると、からかうこともできない。
笑茉ちゃんは俺の顔をジッと見て、制服のエプロンのポケットからキャンディ缶を取り出して、手に握らせた。
「これ、フランス修道院のキャンディを真似て、五十住さんが作ってくれた試作品なんです。すごく美味しいんですよ」
そのうち、『オグラ』で売り出すつもりなのか、店のオリジナル缶にはオグラの名前が入っていた。
「甘いものを食べると、怖い顔はできません」
「俺、怖い顔をしてた?」
「来店された時の海寿さんとは、別人みたいな顔をしてますよ」
笑茉ちゃんは嘘をつかない。
彼女は甘いお菓子の香りを漂わせて、微笑んだ。
「海寿さん。落ち着いたら、また『オグラ』へいらしてください。コーヒーをサービスしますよ!」
いつも無料ですけどねと、笑茉ちゃんは付け加えた。
「うん。ありがとう」
深々とお辞儀をして、笑茉ちゃんは去っていった。
ただそれだけだったけれど、その姿が小椋のおじさんに重なった。
俺にキャンディ缶をくれたのは、二人目だ。
――それも、『オグラ』のキャンディ缶。
小椋のおじさんと母さんが結婚したと聞いた時、子供心にホッとした。
きっと母さんは幸せになれるだろうと思ったから。
だから、忘れたふりをして、母さんとは会わないよう気をつけていた。
俺が母さんを忘れて会わなければ、鷹沢の母が小椋に嫌がらせをすることもないからだ。
けれど、愛されない鷹沢の母は心を静かに病んでいった――
「甘い……」
甘さが悲しみを癒した口の中の甘さに、自分があんな父親でも、死んだら悲しいと思っていることに気づいた。
「海寿さん。分家の方々がご挨拶にいらしてますよ」
「……今、行く」
――俺は鷹沢を継ぐ。
俺は泣くこともないし、もう逃げることもない。
都久山の頂きに住む鷹沢の当主になる。
ただ一つの恋を守るために周囲を振り回し、傷つけ続けた男が亡くなり、それで皆が幸せになれるとは限らない。
鷹沢の母は父が死んでから、ずっと寝込んだままだ。
父さんを見限って、離れれば幸せになれただろうに、なかば意地のように好きで居続けた。
俺はこの都久山に連れてこられた日を忘れてない――加々見の祖母に手を引かれ、長い坂を上ったのを覚えている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
熱を出して倒れたお母さんは、アパートの住人に発見されて実家へ戻された。
お母さんは『かろう』と言われて、病院に入院して、ぼくだけ加々見の家に連れてこられた。
加々見の家は、みんながぼくを冷たい目で見ていて、邪魔なのかなと思ったけど、それとも少し違う。
「早恵の将来を考えたら、海寿はいないほうがいいんですよ」
おばあちゃんが誰かと話しているのを聞いて、ぼくに向けられた目の理由を知った。
――ぼくはいないほうがいい子……
「海寿。これから、都久山へ行きますよ」
「つくやま……?」
「そう」
おばあちゃんはお母さんが入院している間に、ぼくとお母さんの『これから』を決めてしまった。
ぼくにコートを着せ、帽子と手袋をはめさせると、雪が舞う中、外に出て加々見のおばあちゃんと二人で、電車に乗った。
――ぼくは捨てられるんだ。
「あなたのお父さんのところへ連れていってあげましょうね。覚えていないでしょうけど、赤ちゃんの時は一緒に暮らしていたのよ」
お父さんがいるところは、『つくやま』というらしい。
おばあちゃんは黙ったまま、長い坂を上り、ぼくが遅れそうになると、強く手を引っ張った。
おばあちゃんは早くぼくを捨てたい――そんな気持ちが伝わってきて、引っ張られた手が痛くても、ぼくはなにも言えなかった。
「ほら、ごらんなさい。あなたのお父さんの家は立派な家でしょう? なに不自由なく暮らせるわよ。よかったわねぇ」
――ぜんぜんよくない。ぼくは小さいアパートでいいから、お母さんと一緒に暮らしたい。
長い坂を上りきったところに、お父さんの家があった。
大きなお屋敷の前で、おばあちゃんがインターホンを押すと、玄関の戸が開き、人が出てきた。
お屋敷から出てきたのは、とても綺麗な着物を着た女の人で、ぼくに近寄り、顔をまじまじと見つめてにっこり微笑んだ。
「まあ! 言ってた通り! 本当ね。とっても海宏さんに似ているわ」
女の人はキラキラした目でぼくを見る。
この女の人の目を知っている。
ぼくくらいの子供が、お気に入りのお人形を見つけた時みたいな目だ。
手を叩いて、少女のように笑う。
「嬉しい! この子が私の子供になるのね?」
「ええ。海寿はお渡ししますけど、約束は守っていただきますよ」
「わかっているわ。そちらもね?」
「もちろんです。では、私はこれで失礼します。電車の時間もありますしね」
おばあちゃんはホッとした顔して、ぼくの手を離すと、一人で坂の下をおりていった。
背中がどんどん遠ざかっていく――追いかけることができなかったのは、おばあちゃんはぼくが帰りたいと言っても、きっとここへ置いていくだろうとわかっていたからだ。
「大旦那様と旦那様が戻るのは夜なんですよ。それまで、お部屋で待っていましょうね」
「賢そうな子供ですこと。海宏さんの血を引いているだけありますねぇ」
「小椋さんのケーキがあるんですよ。今、準備して持ってきましょう」
お手伝いさんだろうか。
たくさんの人がお屋敷の中にいた。
「今日からあなたは鷹沢の子よ」
「たかざわ……」
「そう、鷹沢。私があなたのお母さんになるの。海寿さん、よろしくね」
――お母さんじゃないのに、お母さんになるの?
目の前の女性はずっと笑っていて、どこか病的で怖かった。
周りも腫れ物にさわるかのようにして気遣っている。
おかしいと思うのに、時間はかからなかった。
――嫌だ。ぼくのお母さんはこの人じゃない!
ぼくのお茶とケーキを用意するのに、キッチンへ全員が入ったのを見計らって、家を飛び出した。
今ならまだ帰り道を覚えてる。
お母さんに会って、アパートへ帰ろうって言おう。
鷹沢の家から逃げた。
坂の下を走っておりていく。
雪が降っていても、冷たいと思わなかった。
「お母さん……! お母さんっ……!」
今日、初めて大きな声が出た。
呼んでも、お母さんに届かないってわかっていた。
それでも、呼んだ。
坂の下までやっとたどり着き、そして気づいた。
――電車に乗るお金がない。
お母さんのところへに帰れないんだとわかって、目の前が涙でにじんだ。
「帰りたい……帰りたいよ……」
加々見でも鷹沢でもない、ぼくとお母さんの家に帰りたい。
――お願い、お母さん。
お屋敷じゃなくて、小さなアパートの部屋でいいから、ぼくを捨てないでほしい……
涙が次から次へとこぼれて止まらない。
どうしていいかわからずにいると――
「大変だ! 子供が泣いてるぞ。迷子かな?」
すぐそばの店のドアが開き、暖かい空気と一緒に甘いお菓子の香りが顔にかかった。
くせっ毛にメガネをかけた優しそうなおじさんは、泣いているぼくを見て、にこっと笑う。
「泣かなくていいんだよ」
優しい目をしたおじさんは、ぼくと同じ目線までかがんで尋ねた。
「家はどこだい? おじさんが探してあげるから大丈夫だよ」
「ぼくの家は……」
お母さんと住んでいたアパートに連れていってもらおうと思った時、おばあちゃんが言った言葉を思い出した。
『海寿はいないほうがいいんですよ』
――ぼくはお母さんのそばにいちゃいけない。
優しいお母さんが死んだら、ぼくのせい。
お母さんと住んでいた家へ帰りたいけど帰れない。
「たかざわ」
「うん?」
「たかざわです。坂の上にある家が、ぼくの家です……」
「ああ。鷹沢の子か! 小さいのによく名前を言えたな。偉いぞ!」
頭をわしわしと撫でられた。
そして、泣き顔のぼくの前に綺麗な缶を見せた。
「メリークリスマス!」
「もうクリスマスは終わったよ……?」
「ぐっ……! ま、まぁ、そうなんだけど……。試作品を作ったんだけどね。今年のクリスマスに間に合わなかったんだ……」
ははっとおじさんは笑って、指で頬をかいた。
「おじさんが修行で行っていた国のキャンディでね。ちょっと試しに作ってみたんだ」
ぼくの口にキャンディを一つ放り込み、綺麗なキャンディ缶をポケットにいれてくれた。
「甘いものを食べると、悲しい気持ちが少しだけ消えるよ。ほら、食べてごらん?」
「あまい……」
「はははは。ちょっと甘すぎたかな?」
おじさんが言った通り、涙は止まり、苦しかった気持ちは少しだけ消えた。
「『オグラ』へいつでもおいで。またお菓子をあげよう」
甘いお菓子の香りがする優しいおじさん。この人がいる場所が『オグラ』。
ぼくの手を優しく握って、おじさんは一緒に長い坂を歩いてくれた。
温かくて甘くて、ぼくはこんな優しい大人もいるんだって知った。
やがて、このおじさんとお母さんが結婚して、ぼくに妹ができるなんて、この時は少しも思っていなかった――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――小椋の母は幸せだったと思う。
黒いネクタイをしめた。
鏡の中に映る自分は、嫌になるくらい父親に似ていた。
自分の姿から目をそらして部屋を出ると、ちょうど台所仕事を任せている家政婦と出会った。
「海寿さん。小椋さんが挨拶をしたいと言っているのですが、いかがされますか?」
「会うよ」
――小椋さんは昨日やってきて、挨拶したはずだけど、配達に来た料理人か?
父が死んでから、弔問客がひっきりなしに訪れていた。
親戚も多く、彼らの食事は『オグラ』に料理を頼んである。
だから、挨拶に来たのは小椋さんが一番早かった。
配達に来た料理人も古くから勤めている人が多い。だから、挨拶したいと言うのは、なにも不思議じゃない――
「笑茉ちゃん?」
「裏口からすみません。『オグラ』のコネを使いました」
「コネ? ああ、なるほど」
『オグラ』のきまりで、鷹沢には料理人が配達することになっている。
――母や夕愛が鷹沢に関わらないようにするために、内々に決められたルールだ。
それを知っている人間は少ない。
笑茉ちゃんは五十住と一緒に来たらしく、配達用の車のそばにいた五十住が、軽く頭を下げた。
「忙しいってわかっていたんですけど、海寿さんがどうしているか気になって……」
「俺が好きだから?」
きっと顔を赤くして慌てるに違いないと思った。
けれど、彼女は違った。
「そうです」
「気持ちを言い当てられたら、少しは動揺するものだと思うけど?」
「嘘を言っても、きっと海寿さんにはバレてしまいますし、それなら隠す意味はないなって思いまして」
「素直すぎるね」
ここまではっきり言われると、からかうこともできない。
笑茉ちゃんは俺の顔をジッと見て、制服のエプロンのポケットからキャンディ缶を取り出して、手に握らせた。
「これ、フランス修道院のキャンディを真似て、五十住さんが作ってくれた試作品なんです。すごく美味しいんですよ」
そのうち、『オグラ』で売り出すつもりなのか、店のオリジナル缶にはオグラの名前が入っていた。
「甘いものを食べると、怖い顔はできません」
「俺、怖い顔をしてた?」
「来店された時の海寿さんとは、別人みたいな顔をしてますよ」
笑茉ちゃんは嘘をつかない。
彼女は甘いお菓子の香りを漂わせて、微笑んだ。
「海寿さん。落ち着いたら、また『オグラ』へいらしてください。コーヒーをサービスしますよ!」
いつも無料ですけどねと、笑茉ちゃんは付け加えた。
「うん。ありがとう」
深々とお辞儀をして、笑茉ちゃんは去っていった。
ただそれだけだったけれど、その姿が小椋のおじさんに重なった。
俺にキャンディ缶をくれたのは、二人目だ。
――それも、『オグラ』のキャンディ缶。
小椋のおじさんと母さんが結婚したと聞いた時、子供心にホッとした。
きっと母さんは幸せになれるだろうと思ったから。
だから、忘れたふりをして、母さんとは会わないよう気をつけていた。
俺が母さんを忘れて会わなければ、鷹沢の母が小椋に嫌がらせをすることもないからだ。
けれど、愛されない鷹沢の母は心を静かに病んでいった――
「甘い……」
甘さが悲しみを癒した口の中の甘さに、自分があんな父親でも、死んだら悲しいと思っていることに気づいた。
「海寿さん。分家の方々がご挨拶にいらしてますよ」
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