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第27話『名を狙われた薬師、心の処方の真価』
しおりを挟む薬庵に一時の平穏が戻ったかに見えたのは、ほんの数日間だけだった。
庵の門前には、またしても黒い噂を信じて押しかける者や、
逆に「名を護ってほしい」と頼みに来る者が絶えず訪れた。
リーナはどちらにも丁寧に対応した。
不安げに薬を求める者には、一人一人に簡単な問診を行い、
香と調薬を用いてその人が“自分の名を口にできるか”を確認する。
そして自分の名前を呼べた人には、必ず微笑みを返して言った。
「その名を忘れないで。
あなたが生きてきた日々が、その名にすべて詰まっているのだから」
◆ ◆ ◆
だが、その夜だった。
リーナは調薬室の奥で、静かに香の仕込みをしていた。
小瓶を一本ずつ手に取り、底を透かす。
薬師としてのこの作業が、どれほど心を落ち着かせるものだったか。
「……さて、これで明日の処方も」
そう言いかけた瞬間だった。
ツ、と部屋の奥の気配が変わった。
「……誰?」
音もなく、闇の中から影が立った。
黒の処方師。
「まさか、ここまで不用心とはな。
辺境の薬師」
リーナはすぐに香皿へ手を伸ばす。
だがそれより早く、影の指先が小さく振るわれた。
一瞬、室内に濃密な黒い香が満ちた。
《名奪い香》――
それは通常、時間をかけて名を蝕む処方。
だが目の前の黒の処方師は、明らかに別格だった。
リーナの胸に鋭い痛みが走る。
(……この香は……私の“名前”に直接……!)
膝が、がくりと折れそうになる。
だが歯を食いしばり、リーナは香棚に手を伸ばした。
「まだ……私の処方は……終わってない!」
震える手で掴んだのは《名響薬》。
それを胸元で砕くと、身体中に走る激痛と共に、古い記憶が洪水のように蘇る。
父と母に呼ばれた名前――
初めて薬を調合し、師に名前を褒められたあの日――
シェイドに、真剣な顔で「お前の名前は信頼だ」と言われたとき――
「……リーナ……私は……リーナ・ルミナス!」
その声は苦しげで、けれど確かに名前を呼んでいた。
黒の処方師がわずかに口角を吊り上げる。
「面白い。
だが、その名に頼るだけで、いつまで耐えられる?」
次の瞬間、香の濃度がさらに増した。
視界が歪む。
手足の感覚が遠のく。
意識の奥で、小さな自分が震えているのを感じた。
(もう……呼べない……?)
だが――
「リーナ先生っ!!」
突然、扉が開いてノアが飛び込んできた。
手には小さな香瓶。
そしてその中には《共鳴心香》――患者たちの名を守るために使った香が詰められていた。
「ノア……!」
「先生!これを!」
リーナは力なく伸ばした手で、その瓶を受け取った。
次の瞬間――瓶を砕き、香が肺に満ちる。
すると意識の奥に、小さな光が見えた。
(リーナ先生、ありがとう)
(わたしの名を呼んでくれた、あの日のこと忘れない)
(先生の名前、わたし……好きです)
患者たちがここで残していった、無数の“ありがとう”と“名前”。
「……私の……名は……リーナ・ルミナス。
呼ばれ続けた名……呼び返す名……!」
黒の香が弾かれ、部屋の空気が一瞬澄んだ。
黒の処方師が低く笑った。
「やはり……甘いな。
だが次はもっと深く、お前の中まで入る処方を調えるとしよう」
影はまたしても、夜の闇に溶けるように消えた。
◆ ◆ ◆
リーナは崩れ落ちそうな身体をノアに支えられながら、息をついて笑った。
「……ノア、ありがとう。
あなたがいなかったら、私はもう名前を呼べなくなっていたかもしれない」
「そんなの当たり前です。
先生は僕の先生なんですから。
僕の名を何度も守ってくれた先生の名を、今度は僕が護ります!」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
「……頼もしいわね、私の助手は」
◆ ◆ ◆
その夜遅く、リーナは庵の縁側に一人座っていた。
名を守る処方。
名を奪う処方。
どちらも、薬師の技の延長にあった。
「私の処方は……これでいいのよね?」
小さく自問すると、そよぐ夜風の中に、どこからともなく香が届いた気がした。
それは、かつての患者たち――
庵を去り、今はそれぞれの場所で自分の名を呼んでいる人々の想いだった。
「……そうね。
私の処方は、これでいい。
痛みも、迷いも、全部一緒に抱えながら――名を呼ぶ。
それが、薬師としての私」
その決意に、夜空の星が静かに瞬いた。
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