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第29話『黒の処方師の策謀、揺れる庶民議会』
しおりを挟む庵へ戻って一週間――
リーナはようやく調薬作業を平常に戻しつつあった。
王都の議場でのやり取りは厳しかったが、あの日の彼女の言葉は庶民議会に強い印象を残し、
薬庵への信頼はむしろ以前より増した。
患者の数も再び増え始め、小さな子供から老いた職人まで、再び名を護る処方を求めて門を叩いてきた。
「先生……お礼です。
あの香を嗅いでから、夜にうなされなくなりました。
家族に名前を呼んでもらうのも、少し嬉しくなって……」
そう言って涙ぐむ母親に、リーナはそっと手を添えた。
「あなたが自分の名前を呼び返す勇気を持ったからよ。
これからも、その名前を大事にしてあげて」
患者が帰ったあと、ノアが嬉しそうに笑った。
「やっぱり、先生の処方はすごいです。
名を呼ぶのって、誰でもできそうで、実は一番難しいことなんですね」
「そうね。
だから薬師は、その少しの勇気を引き出すために処方を調えるの」
庵には穏やかな時間が流れていた。
◆ ◆ ◆
けれど、その静けさを再び破ったのは――
庶民議会から駆け込んできた使者の言葉だった。
「リーナ殿……!
議会が……揺れています!」
息を切らして庵へ飛び込んできた青年は、庶民議会の若い書記だった。
「どういうこと?」
「黒の処方師です……あの者が、議会の中に取り入ってきました。
“名を奪えば、もう苦しまなくて済む”と、庶民の一部に囁いて回っているのです!」
ノアが絶句する。
「そんな……自分の名前を捨てたい人なんて、いるわけ――」
「いるのよ、ノア。
名を護る痛みより、名を失う安寧を選びたい人も」
リーナの言葉に書記は深く頷いた。
「はい……家族を亡くした者、借金に追われる者、様々です。
黒の処方師はそこに漬け込んで、庶民議会の代表にも“解放の薬”を提供しました」
「議会の代表が……?」
「ええ……名を捨てれば、もう誰からも期待されず、責められずに済むと……
庶民議会の席で突然、名前を失い、場が混乱しました」
リーナは目を閉じ、小さく呼吸を整えた。
「やっぱり動き出したのね。
黒の処方師は、ただ人の名前を奪うだけじゃない。
この国の“名で繋がる秩序”そのものを壊そうとしている」
「先生……どうするんですか?」
リーナは瞳を開き、真っ直ぐに書記を見つめた。
「庶民議会へ行くわ。
名を護る処方を、再び議会の場で示さなければならない」
◆ ◆ ◆
数日後、庶民議会の議事堂は異様な空気に包まれていた。
普段なら名を呼び合うための小さな誓いの儀が行われる場だが、
この日は誰も互いの名を呼ぼうとしなかった。
(名を呼ぶのが怖いのね……
呼べば、また失うかもしれないと)
リーナは胸元の香瓶にそっと触れた。
《誓名心響式》
あの日、貴族議会で見せた処方。
だが今度は、庶民のためだけに調え直したものだった。
「リーナ殿……来てくれたのか」
震える声で迎えたのは、庶民議会の議長代理だった。
「あなたも、名を呼ぶのが怖い?」
「……ああ。
名は私たちの誇りだが、それゆえに弱さも抱える。
黒の処方師はそこを衝いてきた。
“名を捨てれば楽になれる”と……」
リーナはそっと壇の中央に立つ。
「皆さん。
私の処方は、名を縛るものじゃありません。
ただ、あなたが“呼ばれたい名前”をもう一度口にできるようにするためのものです」
人々が息を呑む。
彼女の声はやさしく、それでいて静かな力を持っていた。
「名を呼ぶことは、確かに痛みを伴います。
忘れたい過去が、呼び起こされることもあるでしょう。
でも――それを抱えて生きるのが、“人”でしょう?」
ノアが静かに頷いた。
「僕は、そう思います。
名を呼んだから、僕は先生に救われた。
だから、皆さんも……!」
リーナは香瓶を開いた。
青く透明な香が広がり、議場を満たしていく。
「これは《共誓香》。
この場にいるあなた方が、自分の名を呼んだときだけ、効力を持つ香です。
無理強いはしません。
でも――あなたの名前を、もう一度思い出してほしい」
沈黙が続いた。
長い、長い沈黙。
だがやがて、議場の隅に座っていた老婆が小さく震える声で言った。
「……私は……イネス。
この名前は、死んだ夫が最後まで呼んでくれた名前なんだよ……」
その瞬間、香がきらりと光った。
次々に、誰かが自分の名前を呼び始める。
「……ルークです」
「私はミーナ……」
「わたし、カイリ。リュシエン様から受け取った、この名を……!」
香はその響きを受けて、やさしく揺らぎながら議場を包み込んだ。
◆ ◆ ◆
議事が終わったあと、議長代理がリーナに深く頭を下げた。
「貴女が来てくれなければ、庶民議会は黒の処方師に飲み込まれていたでしょう」
「いいえ。
あなた方が自分で名を呼んだから、護れたのです。
私はほんの少し、背中を押しただけ」
議長代理は微笑んだ。
「それでも、薬師は必要だ。
名を呼ぶ痛みを、共に抱えてくれる誰かが」
◆ ◆ ◆
その夜、庵に戻ったリーナは調薬室の灯りを落とし、ひとり香を焚いていた。
(黒の処方師……あなたがどんなに名を奪おうとしても、
私は何度でも名を護る処方を調えるわ)
香の向こうで、亡き父や母が微笑んでいるような気がした。
「お父さん、お母さん。
私はあなたたちがくれたこの名前を守り続ける。
誰かの名を護ることで――私自身の名をも、ずっと」
香が優しく揺れ、部屋を包み込んだ。
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