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第33話『薬庵の日常、名を繋ぐ小さな灯火』
しおりを挟む黒の処方師アゼルとの戦いから数週間が過ぎ――
薬庵には穏やかで、どこか柔らかな日々が戻っていた。
季節は春から初夏へ移り、庵の庭先には新しく植えた薬草が元気に葉を伸ばしている。
それを眺めるだけで、胸の奥に静かな喜びが湧いた。
「先生、今日の調薬、僕にも少しやらせてください!」
ノアの声が元気に響く。
「いいわよ。
でも分量を間違えないように。
この香は患者さんの“名を守る”大事な香だから」
「はい、わかってます!」
小さな助手が真剣に瓶を持つその姿に、リーナは思わず微笑んだ。
(ノアもずいぶん逞しくなったわね)
◆ ◆ ◆
その日の午後、庵を訪れたのは見覚えのある顔だった。
以前庵で名を護った老人、ティル爺さん。
杖をつきながらも、しっかりとした足取りで庵の調薬室へ入ってきた。
「やあ薬師の嬢さん。
この間は世話になったなぁ。
あれから夜中に自分の名を呼んでみるんだが、少し怖くなくなったよ」
「それは良かった。
名を口にするのが怖くなくなったっていうのは、とても大事なことなのよ」
ティル爺さんは照れくさそうに頷く。
「今日はな、孫が生まれてな。
初めて自分で付けた名を、この香に刻んでやりたくて来たんだ」
リーナの胸に温かいものが広がった。
「もちろんです。
一緒にこの香に、その子の名前を呼んであげましょう」
◆ ◆ ◆
ティル爺さんがそっと香の器を抱きしめる。
「エディ。
お前の名前はエディだ。
わしが一番好きだった兄貴の名前をもらったんだ。
どうか優しい子に育ってくれ……」
その声に合わせて、淡い香がふわりと立ち昇り、小さな光が生まれた。
リーナは微笑んで頷く。
「これでエディくんの名前は、この香の中でずっと守られます。
いつかその子が大きくなったときに渡してあげてくださいね」
「おお……ありがとうよ、嬢さん……!」
ティル爺さんの瞳に光るものがあって、それを見てリーナは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
◆ ◆ ◆
その夜。
ノアと一緒に庵の縁側で夜風に当たっていると、庭先から虫の声がかすかに響いた。
「先生。
あんな風に香に名前を残すのって、すごくいいですね」
「ええ。
人は年を取ると、色んなものを忘れていくけれど――
誰かに呼ばれた名前だけは、最後まで心に残るものだから」
ノアは少し恥ずかしそうに言った。
「僕、いつか大人になっても……先生に名前を呼ばれたいです」
「もちろんよ。
あなたの名前は、私にとっても大事な名前だもの」
その言葉に、ノアは子供みたいに顔を赤くしてうつむいた。
◆ ◆ ◆
次の日。
庵にまた見慣れぬ親子が訪れた。
幼い少女が、緊張した面持ちでリーナの前に座る。
「どうしたの?」
母親が少し困ったように説明する。
「この子、最近自分の名前を口にするのを嫌がるんです。
それまでは毎日、自分で『私はフローラです!』って言ってたのに……」
リーナは優しく少女に視線を合わせた。
「フローラちゃん。
お名前を呼ばれるの、恥ずかしい?」
少女は小さく頷く。
「でもね、名前を呼ぶって、とっても素敵なことなのよ。
フローラちゃんが自分の名前を呼ぶと、ちゃんと心に光が灯るの」
そう言って、リーナは小さな香瓶を取り出した。
「これにね、フローラちゃんの名前を呼んで入れてみましょう?」
少女は戸惑いながらも、そっと声を絞り出した。
「……わたし、フローラです」
その瞬間、香瓶の中がきらりと光った。
「ほらね?
フローラちゃんの声、ちゃんと届いたわよ」
少女は驚いたように目を見開き、それからぱっと笑顔になった。
「……わたし、フローラです!」
もう一度、その声は今度はしっかりとしていた。
母親が涙ぐみながらリーナに頭を下げた。
「ありがとうございます……この子の名前を守ってくれて」
「いいえ。
守ったのはフローラちゃん自身よ。
私は少し香を調えただけ」
◆ ◆ ◆
夜、ノアと薬棚を整理していると、ふとノアが呟いた。
「先生って、本当に薬師なんですかね?」
「……どういう意味?」
「だって、先生が作ってるのは薬じゃなくて――
名前そのものを繋ぐものだから」
リーナはくすっと笑った。
「それでもいいじゃない。
薬師って、心の痛みにも処方を作るものだから。
香に名前を繋ぐのも、きっと薬師の仕事よ」
ノアは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ僕もいつか、そういう薬師になります。
人の名前をちゃんと守れるような――」
「ふふ、それは頼もしいわね」
リーナはそっとノアの頭を撫でた。
(きっとこれからも、この庵でたくさんの名前を呼ぶんだわ。
それが私の薬師としての生き方だから)
夜風がそっと香を運び、庭先の薬草が小さく揺れた。
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