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第32話『名を呼ぶ未来、薬師としての約束』
しおりを挟む黒の処方師アゼルとの決戦から数日が経った。
薬庵は以前の静けさを取り戻しつつあったが、それはただの静寂ではなく――
患者たちの名を呼ぶ声や、小さな笑い声が絶えない温かな静けさだった。
「あの夜から、患者さんたちが前よりずっと自分の名前を大事に呼ぶようになりましたね」
ノアが調薬棚を片付けながら、嬉しそうに笑った。
「ええ。
それはきっと、自分の名前を守り抜いたからよ。
一度自分で護った名前は、そう簡単には手放さないものだから」
リーナはそう言いながら、棚の奥にある小さな香瓶をそっと撫でた。
《連響香》
あの決戦で患者たちの名を束ね、アゼルを退けた処方の残り香。
(皆の名があったから、私は私でいられた)
胸の奥が静かに満ちていく。
薬師として、自分が護ってきたものの尊さを改めて感じる時間だった。
◆ ◆ ◆
その日の午後、庵に一人の少女が訪れた。
カイリ――リュシエンの名を継ぎ、庶民議会で代表を務める彼女は、
以前よりもさらに凛とした面差しになっていた。
「リーナ先生……あの夜は、本当にありがとうございました」
「私がしたのは、ほんの少し香を調えただけよ。
あなたが自分で名前を呼んだから、護れたの」
カイリは小さく首を振り、そして一歩近づいた。
「でも……それを教えてくれたのは先生です。
私、名を継いだときは正直怖かった。
リュシエン様の名前を、本当に抱えられるのかって。
でも今は、ちゃんと“私自身の名前”として呼べるんです」
その瞳は真っ直ぐで、どこまでも澄んでいた。
「だから、これからも先生の処方を必要とする人はきっと増えます。
どうか、その人たちの名前を護ってあげてください」
リーナは微笑んだ。
「もちろんよ。
それが、薬師としての私の約束だから」
◆ ◆ ◆
その夜、庵の庭に出ると、星空がどこまでも澄んでいた。
「……お父さん、お母さん。
私、少しは薬師として胸を張れるようになったかしら」
夜風がそっと髪を撫でる。
どこか懐かしい香りがした気がした。
庵の奥からノアが顔を出した。
「先生、夜風に当たってるんですか?」
「ええ。
なんだか今日は、名前を呼ばれた頃のことを思い出しちゃって」
「先生がリーナ・ルミナスって名前で良かったです」
その言葉にリーナは小さく笑い、夜空を見上げた。
「ありがとう、ノア。
これからも何度でも、その名前を呼んでね」
「もちろんです。
僕は先生の助手ですから!」
◆ ◆ ◆
それからまた数日後。
王都から一通の文書が庵に届けられた。
それは、術式倫理会議の補足決議。
リーナの処方を王都管轄に置かず、庵の独立を正式に認める旨が記されていた。
「……あのラダム公爵がよくこれを承認しましたね」
ノアが目を丸くする。
「きっと彼らもわかったのよ。
人の名を無理に管理したところで、何も解決しないって」
「でも王都の魔法院は、まだ先生の処方を解析しようとしてますよね?」
「解析されても平気。
処方は式や薬理だけじゃ完成しない。
心を結ぶものだから――誰が作っても、同じにはならないの」
それが、リーナが薬師として辿り着いた答えだった。
◆ ◆ ◆
夕方、庵の門を叩く音がした。
そこに立っていたのは、かつての政補佐官シェイドだった。
「……久しいな、リーナ」
「ええ。
あなたがここに来るなんて、珍しいわね」
シェイドはわずかに笑い、懐から一つの香袋を取り出した。
「庶民議会の議長代理から預かった。
議場で守られた名を、香に封じたものだ。
君の庵が、これからも必要になると彼らは言っていた」
リーナはその香袋を両手で受け取り、そっと胸に抱いた。
「ありがとう。
必ず、この香を生かすわ。
名を呼ぶ未来のために」
シェイドは小さく肩を揺らし、どこか寂しそうに目を細めた。
「……君は変わらないな。
いつまでも、名を呼ぶことに真剣で」
「それが私の薬師としての全てだから」
「……ああ、そうだったな」
その言葉に、シェイドの顔がどこか晴れたように見えた。
◆ ◆ ◆
夜、リーナは調薬室の奥に小さな棚を作った。
そこに、患者からもらったお守りや、名を呼んだ証として渡された小瓶を並べる。
「これが、私が薬師として歩いてきた証」
ノアが後ろから覗き込み、笑顔を見せた。
「どんどん増えていきますね」
「ええ。
これからも増やしていくわ。
名を呼んで、護って、その証をここに置いていくの」
それはリーナにとって、何より大切な宝物だった。
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