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第34話『薬庵の奇跡、新たな名を刻むとき』
しおりを挟む初夏の風が心地よく吹き抜ける日だった。
庵の庭に植えた新しい薬草が小さな白い花をつけ、
リーナはしゃがんでそっと花びらを指先で確かめた。
「……今年もちゃんと咲いてくれたのね」
それはかつて亡き師匠――マルグリッドが、リーナに譲ってくれた種から育てた薬草だった。
名を呼ぶ処方に欠かせない、わずかに甘い香を放つその花は、庵の大切な宝物だった。
背後から声がかかる。
「先生、さっき街から大きな荷車が来ましたよ。
名前を護りたいって人が、今度は自分の家族を連れてきたんです」
「まあ、それは賑やかになりそうね」
ノアは少し誇らしげに笑った。
「きっとみんな、あの夜のことを覚えてるんです。
自分で名を呼べたから、今度は誰かの名前も守ってあげたいんじゃないかな」
リーナはふっと小さく目を細めた。
「そうね……名を呼ぶ勇気は、一人じゃ生まれないもの。
大事な誰かのためなら、もっと強くなれるのよ」
◆ ◆ ◆
庵の調薬室は、その日いつになく賑やかだった。
若い夫婦が手を取り合って座り、香の器を前にして互いの名前を呼び合っている。
年老いた母親が息子の名前をそっと囁くと、息子は涙を浮かべながらその手を取った。
「これが先生の言っていた、“名を繋ぐ香”なんですね」
ノアは感慨深そうに香の揺らぎを見つめた。
「ええ。
こうして誰かが誰かの名前を呼んで、それがまた別の誰かに繋がっていく。
それこそが薬師として一番調えたい処方なのよ」
そう言って微笑んだリーナの表情は、以前よりずっと穏やかで強かった。
◆ ◆ ◆
そんなとき、庵の門を軽く叩く音がした。
そこに立っていたのは、以前リーナが処方した青年――
かつて自分の名を恐れ、香に縋るように泣いていた青年だった。
けれど今の彼は違った。
「……先生。
今度は、僕が呼びたい名前があるんです」
リーナはゆっくり頷いた。
「もちろん。
どうぞ」
青年は庵の中央に座ると、小さな香袋を取り出した。
「彼女に……贈りたいんです。
彼女はいつも自分の名前を嫌っていました。
でも、僕はその名前が好きだから」
震える声で、けれどはっきりとその名を呼ぶ。
「――マリア」
その瞬間、香袋がきらりと光り、甘い香が庵の中に広がった。
「これで……大丈夫ですか?」
「ええ。
あなたが呼んだから、マリアさんの名はもう決して一人ぼっちじゃないわ」
青年の目が潤み、小さく微笑んだ。
◆ ◆ ◆
その夜。
庵の庭でノアと二人、月を眺めながら話していた。
「ねえ先生。
こうして誰かが誰かの名前を呼ぶのって、本当に奇跡みたいですね」
「そうね。
名を呼ぶのも、名を呼ばれるのも、人にとって一番小さな奇跡よ」
ノアは少し考えるように黙り、それから照れくさそうに笑った。
「じゃあ僕、先生の名前を何度でも呼びます。
その小さな奇跡をずっとここに残しておきたいから」
「ふふ、ありがとう。
ノアにそう言ってもらえると、私の名前も少し誇らしくなるわ」
二人の笑い声に、夜風がそっと寄り添った。
◆ ◆ ◆
次の日。
庵に新たに訪れたのは、幼い兄妹を連れた若い母親だった。
「この子たち……最近引っ越してきたばかりで、まだ自分の名前を大きな声で言えなくて」
「怖いの?」
リーナが優しく尋ねると、小さな兄と妹は小さく頷いた。
「大丈夫。
この香の前でなら、恥ずかしくないし、怖くないわよ」
そう言って小さな香壺を兄妹に差し出した。
兄が小さな声で呟いた。
「……ぼくは、リオです」
妹が震える声で続く。
「わ、わたしは……ミナ……」
香がふわりと光り、二人の目が見開かれる。
「これで、リオくんもミナちゃんも、この街でちゃんと名前を持って生きていけるわ」
母親は泣きながらリーナに頭を下げた。
「ありがとうございます……この子たち、きっともう大丈夫です」
◆ ◆ ◆
夜、庵の奥の棚にそっと小さな香袋を置く。
「これでまた一つ、名前の灯火が増えたわね」
ノアが嬉しそうに頷く。
「はい。
この棚、いつか溢れるくらい名前が詰まりますね」
「そうなるといいわね。
そしたらきっと、ここは世界で一番名前の香りが濃い場所になるわ」
それはきっと、この世界で一番小さな奇跡が重なる場所。
リーナはそっと目を閉じ、薬師として調えてきた全てに感謝した。
(これからもきっと、いくつもの名がここに繋がる。
私はそれを見届けながら、この庵でずっと処方を続けていくの)
夜空には星が輝き、微かな甘い香がそっと庭を包んでいた。
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