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第36話『薬師の道標、名を抱いて歩む未来』
しおりを挟む薬庵にまた新しい朝が訪れた。
けれどその空気は、どこか特別な匂いがした。
庵の前には、遠方から馬車に揺られてやって来た患者たちの姿がある。
中には、リーナがまだ王都で処方を認められる前――
静かに名を失ってしまった人たちの家族もいた。
「……先生、あの人たち……」
ノアが少し戸惑いがちに小声で言った。
「ええ、知っているわ。
あのとき私が救えなかった人の家族」
それでも、リーナは静かに微笑んだ。
「だからこそ、今ここに来てくれた。
もう一度、名を呼ぶために」
◆ ◆ ◆
調薬室には、今日も新しい香が用意されていた。
リーナが長い時間をかけて調えた《未来紡ぎ香》。
呼ばれた名がこれから先、どこで生きてもその人の中で輝き続ける処方。
椅子に座った若い母親が、小さな娘を抱きしめるように香の器を前に置いた。
「……この子、まだ小さいのに、最近夜中にうなされて名前を呼ばなくなってしまって」
リーナはそっとその子の頭に手を置いた。
「大丈夫よ。
今から一緒に香に名前を呼び込んで、その名前をずっと守っていきましょう」
母親が涙ぐみながら、小さな声で娘の名前を呼んだ。
「……サリア。
あなたはサリア。
私とお父さんの大事な、大事なサリアだからね」
その言葉に応えるように香がきらりと光った。
娘の瞳がゆっくりと開き、小さな声でつぶやいた。
「……サリア、です……」
「そう。
とても良い名前よ」
リーナは優しく笑って、その肩を抱いた。
◆ ◆ ◆
午後。
調薬が一段落し、リーナは庭で薬草の手入れをしていた。
ノアが嬉しそうに飛び出してくる。
「先生!
さっきのお母さんとサリアちゃんが、家に帰る前にもう一度名前を呼んでました。
“きっとこれからも何度でも呼びます”って」
「それは素敵ね。
名前は呼ばれるたびに強くなるの」
ノアは小さく首をかしげる。
「僕、最近考えるんです。
名を護る処方って、呼ぶたびにどんどん育つものなんじゃないかなって」
「……そうね。
あなたの言う通りよ。
処方は心に寄り添うものだから、その人が大切にするほど強くなっていくの」
そう言いながら、リーナはノアの頭をそっと撫でた。
「あなたももう立派な薬師ね」
ノアは照れくさそうに顔を赤くした。
◆ ◆ ◆
その夜。
庵の調薬室の奥で、リーナは最後の処方を書き込んでいた。
《名護り香:継承式》
それは自分の処方を、いつかノアが受け継ぐときのためのものだった。
ノアは少し不安げにリーナの隣に座る。
「先生……それって……」
「ええ。
これはいつか、私がもうこの庵にいなくなったときのための処方。
あなたが薬師として、私の香を引き継ぐためのものよ」
「でも先生……そんなの嫌です。
先生はずっとここにいてください」
「ノア」
リーナは優しくノアの手を握った。
「私はきっと、ずっとここにいるわ。
でもあなたには、あなたの薬師としての道がある。
私の香を受け継ぐのは、その証」
ノアは涙を浮かべ、そしてぎゅっと頷いた。
「わかりました。
いつかその時が来たら、僕が絶対にこの香を護ります」
「ありがとう、ノア。
それが聞けて、本当に嬉しいわ」
◆ ◆ ◆
その夜遅く。
リーナは薬棚を眺めながらそっと独り言を呟いた。
「お父さん、お母さん、師匠……
私、ここまで来られたわ」
棚には患者たちの名を護った小さな香袋が並んでいる。
(これが私の歩いてきた証。
名を呼び、名を護り続けた道標)
そっと胸に手を当てる。
「これからも私は薬師としてここにいて、名を護り続ける。
たとえ遠く離れても――呼んでくれる誰かがいる限り、私は私でいられるから」
窓の外には夜風が吹き込み、小さな香が淡く光った。
◆ ◆ ◆
翌朝。
ノアが庵の前に立ち、遠くを見つめていた。
「先生……」
「どうしたの?」
「僕、いつか先生みたいに、この庵から外へ出て、他の街でも名前を護れる薬師になりたいです」
リーナは少し驚いて、それからとても嬉しそうに笑った。
「それは立派な夢ね。
私もあなたならきっとできると思うわ」
ノアは真剣な瞳で言った。
「でも、それまでずっとここで修行します。
先生の処方をちゃんと受け継げるまで」
「ええ。
一緒にたくさん処方を作りましょう。
あなたの未来のためにも」
ノアの顔がぱっと明るくなる。
その瞳に、かつての自分のような強い光を見て、リーナは胸がいっぱいになった。
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