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一章
八、孫呉の猛将
しおりを挟む朱桓は馬乗りの状態となり、拳を振り上げて諸葛恪の顔をめがけて振り下ろした。
だが諸葛恪はその瞬間に腰で腰をグイと持ち上げると、朱桓の体勢を前方に崩してからするりと拘束から抜け出してしまう。
それでも流石、戦場で生きてきた人間なだけある。
朱桓は息をつかせる間もなく再び飛び掛かろうとした。
しかし諸葛恪は動かない。
正面から朱桓の目を見据え、慌てることなく堂々と居住まいを正して見せた。
危ない。思わず楊甜は駆け出し、両手を広げて諸葛恪の前に立ち塞がる。
その瞬間だった。諸葛恪は緊張を破るように、大きな声を張り上げた。
「勅令である!!」
まるで雷に打たれたかのように朱桓は全身を硬直させると、瞬時にその場に平伏。
目前に迫っていた殺気が消えたことで緊張が解れたのか、楊甜は腰を抜かしてへたりこんだ。
「前将軍・青州牧、朱桓!」
「ここに!」
「戦いは終結した、直ちに帰陣せよ!」
「御意!皇帝陛下万歳!!」
両の手を天に掲げて高らかに万歳を叫ぶと、朱桓の意識の糸はプツリと途切れた。
随分と長く張り詰めていたのだろう。気絶するように倒れた朱桓は深く寝息を立て始める。
「楊甜、将軍を寝所まで丁重に運んでくれ」
「ええっと、すいません、ご主人様。僕も動けないです。こ、腰がぁ」
「…だから離れてろって言ったんだろうが馬鹿、チッ」
騒ぎを聞きつけ様子を見に来た使用人らと共に朱桓を寝所に運び入れ、慎重にその鎧を脱がしていく。
これが豪傑と恐れられし"朱桓"か。萎んで細くなっている腕があまりにも痛々しく思えてしまう。
それでもあれだけの殺気を。掴まれた肩がまだ鈍く痛むと、諸葛恪は苦笑いを浮かべる。
「ひぃ、ひぃ、ふぅぅ、ご主人様、お怪我は!」
「いつまで腰を抜かしてるんだお前は、本当に役に立たねぇなぁ」
「本物の、それも第一線で活躍していた御方の殺気を受けたのは初めてで」
また目を覚まして錯乱するといけないので、使用人たちは脱がせた鎧を抱えて寝所を出て行った。
ガランと広く殺風景な寝所であった。硬骨な軍人らしい、無駄なものは何もない。
「将軍は、陛下のために身命を戦場に捧げた人だ。本当にそれだけの人だと聞いている」
「はい、知っています。実は、言うか迷っていましたが、僕の両親は朱桓将軍の兵士に殺されています。将軍が山越族討伐に出向かれた時のことです」
「そうか。では将軍は親の仇か」
「いえ、仇はその兵士であり、将軍ではありません。と、姉さんに散々言われてきました」
思えば楊燕は親の仇とも言える人に仕え、そして助けて欲しいと懇願してきたのだ。嘘偽りのない心で。
もしかしたら最初は仇討ちのつもりで近づいたのかもしれない。
しかし長く仕え、料理を任されるようになっていた。そこに至るまでの経緯は、本人にしか分からないだろう。
「僕たち"落頭民"は呉の人々より迫害を受け、山中で隠れるように暮らしていました。しかし呉の兵は僕らを追い立て、その中で両親は捕縛されて殺されました」
「以前、落頭民に関する報告書を読んだことがある。山中で数人の落頭民を捕らえ、首と胴の間に板を挟んだところ、苦しみながら死んだと」
「恐らく、その時の話だと思います。姉さんと必死に逃げるばかりだったので、詳しい話までは分かりませんが」
呉王朝は不服従民を強制的に服従させる苛烈な弾圧政策を敢行していた。
魏や蜀からも国を守らないといけない中、内側で悠長なことをやっている時間も余裕も無かったためだ。
相容れないものは殺す。服従するなら都合よく使う。その結果、怨嗟が高まっていったのは言うまでもない。
「僕は呉の人間を憎みました。でも姉さんはそんな僕を宥めて、仇であるはずの朱桓将軍の屋敷で働きながら、ただひとこと将軍を『寂しい人』だと言いました」
「寂しい人、か」
「仕事熱心な性格で、家族よりも部下や兵士と共に過ごし、多くの仲間の死を見送ってきた、寂しい人だと」
そういう真面目な人間であるほど、晩年は気を病みやすいものだった。
仕事にしか生きがいが無く、老いてからその仕事の最前線より少し身を引くと、一気に老い始めたりする。
勅令を聞いた瞬間の朱桓の様子こそ、まさしく生真面目な軍人らしい反応であったと言えるだろう。
「それを聞くと、何故だか仇だと思えなくなってきて。今日、こうして直接お会いしてみても恨みの気持ちは一切沸きませんでした。むしろ少し可哀想だ、とも」
「親の仇は何が何でも討つべきである。それが儒の教えであり、人の生きるべき正しい道だ」
「やっぱり僕は、人間じゃなくて怪異だっていうことなんですかね」
「そうだな」
朱桓の額の汗を布で拭い、振り返って諸葛恪は意地悪そうに微笑む。
「だが、お前がそれでいいと思ったのならそれを貫けばいい。誰にも文句を言わせるな。それがいつしか"誇り"になるものだ」
「は、はい!」
その後、朱桓が目を覚ましたのは昼も過ぎた頃であった。
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