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一章
九、鬼退治
しおりを挟む気分が悪いのか言葉にもならないくぐもった声を漏らし、手のひらで両の瞼を覆う。
流石の猛将も酒の悪酔いには勝てず、押し寄せる不快な波を堪えるしかなかった。
「将軍、こちら水です。ひとまずお飲みください」
「水はいい。酒を、持て」
「こちらの水は僅かな塩と酒を含ませ清めています。鬼の心配は御座いません」
「…諸葛のクソ坊主か」
血の気の薄い顔に苦悶の表情を浮かべながらも、朱桓は悪態をついて笑う。
すると諸葛恪は手に持った湯飲みから水を朱桓の口に流し込んだ。
「アガガガハァッ!殺す気かこのガキぃい!?」
「お元気そうで何より」
「年長者を敬えこのクソチビ!」
「なるほど"おかわり"ですね」
諸葛恪の身長のことを触れるのは厳禁である。
楊甜は出来るだけ二人から距離を取って部屋の隅に座り、しばらく掴み合う二人の様子を眺めることにした。
「こんの、アホがぁ。病気の老人に鞭打つような真似をしおって」
「はぁ、はぁ、泣く子も黙る猛将が、病人ヅラしてんじゃねぇよ…」
「儂が死んだらお前のせいにしてやるからな」
「そりゃいいな、武官として箔がつく」
流石にこのまま放っておくとずっと喧嘩しそうなので、楊甜は恐る恐る「あの~…」と手を挙げる。
ギラリとした二人の視点が突き刺さり"ひんっ"と思わず涙が出そうになるが、必死に堪えた。
「えっと、その、いや、何でもないですごめんなさいぃ」
駄目だった。諸葛恪に睨まれると条件反射で謝ってしまう体になってしまっていた。
「おい、クソ坊主。それで、あの巫女はなんだ。お前が連れて来たのか」
「そうですよ。将軍がお困りだという話を聞いて連れて来たのです。目が覚める前のことは覚えておいでですか?」
再び横になり、乱れる息を整えながら朱桓は記憶を掘り起こそうとするも、ただ気分を悪くするばかりであった。
その記憶は夢なのか現実のものなのか。まるで泥濘の中に沈んでいくように呼吸も苦しくなっていく。
もう一度渡される湯飲み。目を閉じて飲み干すと、確かに塩気と酒の香りがした。
「ふぅ、情けないな。呉の"前将軍"が鬼に怯えて気をおかしくしたなど。記憶もあいまいで、ただただ気分が悪いわ」
「我らはその鬼を退治しに来ました。それで、どのような鬼を見るのですか?」
「…昔殺した敵と、死んでいった仲間を見る。だからもう一度殺してやらねばならんと思った」
「将軍らしいですね」
しかし鬼が映るのは水面であり、水面を斬りつけても意味はない。
すると今度は井戸や水瓶から怨嗟の声が響き始め、水を飲むことも出来ず酒に溺れ、酒に溺れると夢も現もわからなくなる。
その結果、朱桓は自分の命を狙う"何か"に付きまとわれている感覚が常態化してしまったのだとか。
「今はどうです?」
「ずっと誰かに刃を突き付けられているような気分だ」
「鬼が見えたり、声が聞こえたりなどは」
「今のところは大丈夫だが、今の間だけだろうという気はしている」
気は落ちていた。あれだけ勇壮な将軍であろうと、ここまで追い詰められるものなのかと楊甜は胸の内で驚く。
しかし諸葛恪は特に気にする様子もなく、淡々と確認を続けるのみ。朱桓はそれを少しありがたいと思っていた。
下手に気を遣われてしまうほうが自尊心を傷つけてしまうものだ。
「鬼の顔に見覚えは」
「…決まって誰かが見えるわけではなく、いつも違う顔が映る。そしてその顔を見ると、儂がそいつを殺した時のことを鮮明に思い出してしまうのだ」
「かつての味方の顔が見えることもあると聞きましたが」
「あぁ、そっちのほうが辛いな。儂の誤った判断で死んだ者、死ぬに死にきれず殺してくれと叫ぶ者、息子を頼むと言って死んだ者、そして守れなかったその息子」
「彼らも将軍を害そうとなさるので?」
「いや、むしろそうしてくれた方が気も楽だ。しかし恨み言一つ吐かず、怒りの目も向けやしない。戦なんてやるものではないな」
それでも朱桓は戦場に足を運ぶ。自分が戦わなければ、他の誰かがこの地獄を背負わないといけないからだ。
だがいつしかその地獄の狂気に呑まれ、むしろ戦場に居ないと生きている心地がしないようになっていた。
これは報いだ。人を殺し過ぎた。朱桓の口角は僅かに震えている。
「小僧、正直に言え、儂は老いて狂ってしまったのだろう?」
「狂っていないと長く戦場に立ち続けることは出来ません。そういう意味ではむしろ"まとも"だと思いますよ。将軍は、最初から狂っているんです」
「そうか、ふっ、確かにそうだな。お前の悪態も今は許してやろう」
「それじゃあ聞きたいことも聞けましたし、早速、鬼退治と参りましょうか」
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