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一章
十、朱桓
しおりを挟むただ話を聞いて慰めに来たわけではない。諸葛恪の本題は「鬼退治」であった。
まさか本気でそんなことを考えていたとも思わず、朱桓も、更には楊甜もぽかんとした表情を浮かべていた。
鬼、それは死者の魂のことである。そして人に害をなす鬼は「悪鬼」として恐れられた。
悪鬼は強い恨みを抱いて死んだ人間の魂の慣れの果てとされ、主に川辺に現れることが多いという。
それは「怨恨を抱えた人間が河に身を投げて自害する」という逸話がよく歴史書に残されていることに由来するとか。
「お、お前、本当に鬼を祓えるのか」
「勿論。鬼すら祓えず、大事を成すことが出来ましょうや」
「それでっ、儂は何をすればいい」
「将軍にも気を付けていただきたいことはいくつかありますが、まずは学問から始めましょう」
「は?学問?」
「おい楊甜、お前も聞け。関係ないみたいな顔するな」
「え、ししししてないですっ!」
怪異に対処するには、その怪異が何たるかを知るのが最も良い。
知らないから怖いのであり、知っている相手ならば付き合い方も分かる。
これは怪異に限らず何事にも通じる"道理"である。
「まず人と怪異にはそれぞれ縄張りがあり、互いにそれを侵すことさえなければ関わることはありません」
「ほぅ、獣と同じか。考えたことも無かったわ」
「しかし水面や鏡面は"人の世"と"怪異の世"の境であり、ふと"異なる者"が映ることもある。将軍はそれをよく知っておりましょう」
「その異なる者が、鬼というわけか」
「如何にも」
朱桓の過ちはその"境界"に映った鬼を討とうとしたことであった。
それは相手の縄張りを侵すことになり、逆にこちらの縄張りを侵されることに繋がってしまう。
「基本的に何が映っても干渉をしないこと。関わらないことが最も良いのです。まぁ、悪質な怪異は勝手に侵してくる場合がありますが」
「ご主人様!つまりこれから無視し続ければ問題ないってことですね!」
「いや、将軍は既に鬼の縄張りを侵した。手遅れだ」
「坊主!さっきお前、鬼を祓えると言ったではないか!」
「黙って最後まで聞け!祓わずに帰るぞ!!」
建国の功臣に対する言葉遣いでは無さすぎて逆に朱桓はしゅんと黙ってしまう。
そんな朱桓に申し訳なさそうな態度なんてさらさら示すことなく、諸葛恪は説明を続けた。
「害をなす怪異への対処法は大きく分けて二つ。和睦か、戦うか。戦と同じです」
「戦と、同じ?」
「さて将軍、どうしますか?」
「…敵に頭を下げるなど言語道断。この国のため、陛下のため、敵は全てこの朱休穆(休穆は朱桓の"あざな")が討ち滅ぼす」
明らかに朱桓の眼差しに闘志が籠る。これが呉軍きっての猛将の姿であった。
これでいい。諸葛恪はにやりと微笑み、頷いた。
「でしたら撃退しましょう。されど相手は悪鬼、勿論、剣や矢は通じません」
「では如何にして戦うのだ」
「威嚇して追い払います。ここにいる巫女は彭沢(鄱陽湖)の生まれであり、この衣装は彭沢の水神の姿を模したものとされています。楊甜、そうだな?」
「そうなの?」
「そうだ」
「あ、そうです。その通りです。勿論です」
「今なんか迷ってなかった?」
訝しむ朱桓を無視して諸葛恪は話を続ける。
怪異を祓うには、更に強力な怪異をぶつけるのが良い。そしてこの術を"呪術"といったりする。
しかし特殊な人間ならともかく、ただの人間が怪異を使役することなんて不可能である。
そこで人々は怪異っぽく変装してみたり、怪異を描いた札を持ち歩くことで"威嚇"し、災いを遠ざけたという。
「というわけで楊甜。彭沢の水神となって儀式を行い、悪鬼を追い払え。塩と酒もここにあるからな」
(ちょ、ちょっとご主人様!そんなこと出来ませんって!)
(出来なくてもやるんだよ。それっぽく舞ったり呪いを唱えたりやってみろ。堂々とやれよ、出来なかったら殺す)
(殺されたくないぃ…)
諸葛恪は水の張った桶を隣の部屋から運びこみ、楊甜の前にずずいと差し出す。
もう後には退けない。朱桓の方を見てみると、寝台の上に座って背筋を伸ばしており、期待の目を向けていた。
(僕が知ってる踊りなんて、えぇい!)
大きく息を吸って、細くゆっくりと吐く。頭の中を空にしていき、水桶を前に大きく飛んで、ふわりと降りた。
やがてその跳躍は一定のリズムとなり、白くたなびく衣装に思わず目を奪われてしまう。
体重が軽いのだろう。トントントンと小気味のいい音が床に響いていた。
そのまま両手を広げて交互に揺らし、桶の周りを回る。やがてその揺れは体全体に及び、まるでゆらゆらと空間が揺れているようにも見える。
これは楊甜の暮らしていた小さな集落で行われていた、ただの豊作祈願の踊りである。楊甜の知る踊りはこれくらいしかなかった。
「…最後に、塩と酒で水を清めたいと思います」
ピンと張りつめた空気。楊甜はその白く細い指で塩をつまみ、水桶にそれっぽく満遍なく落としてみた。
あとは酒である。傍らのひょうたんに酒は入っているのだが、そのままドボドボと注ぐのでは雰囲気が台無しになるだろう。
こうなったら。楊甜は目をぎゅっと瞑り、鼻での呼吸を止めて、酒を一口。
押し寄せる不快感をぐっとこらえて、水桶に霧がかるように吹きかけてみた。
これでどうだ。ちゃんと様になっていただろうか。
恐る恐る目を開くと、次の瞬間視界がぐるりと回り、楊甜はその場に倒れこんでしまった。
「お、おい、巫女!大丈夫か!?」
「ひゃ、ひゃい、だいじょうぶれふぅ」
「あー…、巫女は儀式で神意に近づいたせいで疲弊し、倒れただけです。心配には及びません」
「酔っぱらってるようにも見えるが、う、うむ、そういうものなのか」
ニヤニヤとした表情のまま目を回す楊甜を隣の部屋に乱雑に押し込んで戸を閉める。
確かに酔っぱらっているようだ。まさかこんなに酒に弱いとは思わなかった。
「さて、と。こちらが出来ることはすべて終えました」
「これで鬼を見ることはなくなるのだな」
「いえ、あくまで害をなさない程度に脅威を抑えただけです。鬼を見ずに済むようになるかどうかは、それは将軍の戦い次第です」
「儂の戦い?」
「はい。今のところ鬼は将軍にしか見えておりませんので、その鬼が誰なのか、それを正確に我らが知ることは難しい。しかし将軍は違う」
鬼だと思うから怖いのだ。しかし相手が鬼ではなく人であると考えればどうか。
相手を知ることで、対処が出来る。あとは朱桓の気の持ちようというところが大きかった。
「鬼を見たとき、その鬼の名を呼んでください。名も知らぬ敵であれば、どのように倒したのかを一言でまとめて口に出してみてください」
「それだけでいいのか?」
「はい、ですがそれ以外に干渉してはいけません。そうすれば次第に収まりましょう。あと酒をやめてください。これは気が大きくなりすぎる」
「ぐっ…」
「こちら、陛下から将軍に宛てた書状で御座います。陛下にいらない心配をかけられぬよう、どうか酒を控えていただきたい」
慌てて朱桓は差し出されたその書状を開いて、小さく声に出しながら読み上げていく。
朱桓の体調が優れないことを心配する内容ばかりがそこには綴られており、後半にはもう嗚咽ばかりで何を言っているのか分からなかった。
最後には書状を天に掲げて、都である建業の方角に何度も頭を下げていた。
「よし、酒はやめだ。陛下に長生きしてくれと言われた。儂は、それに応えねば。礼を言うぞ諸葛恪」
「礼は貴方を助けて欲しいと私に直接願い出てくれた、将軍の料理番の女性に言ってください」
「…楊燕か、そうか。あいつが。だがあれが落頭民と分かった以上、やはり側にはおいておけんのだ」
「ならば伝言を。お節介ついでに伝えておきますので」
「お前の飯が一番美味かった。そう伝えてくれ」
鼻水を流し、目を赤く腫らしながら朱桓は笑った。
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