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二章
六、雨の降る山林
しおりを挟むまた雨が降っている。南の地はとにかく雨が多いのだ。
諸葛恪の一行、およそ十人程度の小隊は蓑を着込み、ぬかるんだ土をぐちゃぐちゃと踏んでいく。
不快なはずなのに誰も馬には乗らず足で歩き、牛が荷車をゴロゴロと引きながら力強く前に進んでいた。
「おい、何でお前が居るんだ、子直(顧承のあざな)」
「えへへ、兄上には許可をもらってるのでご心配なさらず」
「俺は許してないんだが?」
顧譚の弟の顧承。以前より彼にはこういう調子のいいというか、少し厚かましいところがあった。
自分が人に好かれやすいことを自覚して立ち回る性格をしており、諸葛恪はこの弟の方が普通に少し苦手である。
そしてそんな顧承は自慢の端正な顔面をずずいと楊甜に突き出して微笑んでいた。
「ねぇねぇ甜ちゃん」
「…甜ちゃん?」
「ぬかるんで転んだら大変だから、僕が手を握ってあげよっか?」
「ご、ご主人様、これどうすれば…」
「ケッ」
出来るだけ諸葛恪は関わりたくないようで、楊甜はぐいぐい来る顧承に苦笑いを浮かべ続ける他なかった。
とはいえ楊甜は諸葛恪の従者であり、いわば所有物。顧承といえども気軽に手を出すことは出来ない。
つまり、ただただ楊甜は時間が早く過ぎ去るのを待つ以外になかったのである。
そしてどれほど歩いただろうか。方角は南へ、増水している川にはなるべく近寄らず、しかしその流れに沿って進む。
いつの間にか調子の良かったはずの顧承の口数も減り、田畑も集落も見当たらなくなって緊張感が増していた。
目的はこの先の山間の調査である。
山間部には不服住民も多く役人が足を運ぶことができない状態であるため、実態が不透明であったのだ。
「若、これより先は呉の影響が及ばなくなります」
「分かった」
「…本当に行かれるので?何かあれば、御屋形様に我ら面目が立ちませぬ」
「何もない、いつも通りだ。この諸葛恪を見くびるな」
「御意。ご帰還をお待ちしております」
すると従者の一人は駆け足で隊列を離れていった。
先頭を歩く諸葛恪が振り返る。蓑を叩く雨の音がなんだかやたらうるさかった。
「ではこれから策を話す。子直は特によく聞いておけ」
「はい!」
「今から山越の影響の濃い地域に入る。奴らは呉人を嫌い、俺らの身分を知れば躊躇なく殺しにかかるだろう。故に我らはこれより商人に扮する。子直、引き返すなら今だぞ」
「いやいや!ここまで来て帰るのはカッコ悪いですから!」
「あと楊甜、お前は俺の側に居ろ」
「分かりました」
「え!ずるい!!」
本来であれば諸葛恪の近くにいると気が休まらないのだが、駄々をこねる顧承を見て今だけはすごくありがたいと楊甜は感謝した。
とはいえ諸葛恪も何かあれば自分を盾に使うつもりなのだろうという気がして、すぐに感謝の気持ちをひっこめる。
「お前らはこれから俺を旦那様と呼ぶこと。そして俺は"劉福"という偽名を用いる。子直、お前は"李金"にするか」
「なんだかずいぶんと安直な名前じゃないすか?商人の名前が"福"と"金"って」
「黙れ」
強く短い言葉で黙らされてしまう顧承。諸葛恪に口答えが許されないことは、楊甜はよく知っていた。
こうして策は決まった。
諸葛恪もとい"劉福"の一行は駆け出しの商家という設定の下、敵の懐に潜り込むこととしたのだ。
また「蛇の怪異」についてだが、これに関しては直近の目撃情報もほとんどなく手掛かりはないに等しい。
こっちの情報は山間に住まう人間に聞く以外にない、という山越調査の"おまけ"程度に考えていたのである。
どれほど進んだだろうか。人の姿もなく、雨の山道は遅々として足が進まず気分も滅入るばかりだった。
ただ、雨脚は少しずつ弱まり雲の先に日の光が見え始める。それだけが気分を晴れさせる唯一の出来事だった。
「報告によればこの先に数十戸程度の集落があるはずだが、これじゃあもう望みは薄いか」
諸葛恪が足を止めた先、そこは洪水で流された田畑、そして木くずが散乱し、潰れて流されている家の残骸も見える。
これらを片づけた痕跡もないということは、もうここに人は住んでいないということなのだろう。
「ご主人、あ、旦那様!ちょっとこの先、なんだかすごく気分が悪いです。瘴気が、はっきりと見えます」
「お前がそこまで言うのは珍しいな」
「え、甜ちゃん?瘴気って?」
川からこの集落まではある程度の距離があり、少しの増水なら問題ないであろう。しかし流されている。
どれほどの規模の洪水であったのかと思案を巡らせ、慎重に一行はそのまま歩みを進めた。
すると見えてくるのはやはり洪水によって流された家屋であったり、そして瓦礫の中には老人や子供の遺体も。
湿気のせいで腐敗も早く、思わず諸葛恪らは裾で鼻と口を覆った。
「…流された人間はもっと多いだろうな」
「ご主人様、これはあまりにも、可哀そうです。こんなに悲惨なことはありません」
「だがこれが"洪水"だ。古来より人間は貴賤を問わずこの無慈悲な濁流に田畑を、命を吞まれてきた」
「埋葬してあげるべきです。霊魂が悪鬼になる前に」
「駄目だ。早くここを去って更に高き地に上る」
「そんなっ」
「甜ちゃん、ここは旦那の言うとおりだ。先の雨でいつまた川が氾濫するかもわからない。そんなときに一度流されている場所に留まるのは危険だ」
だったらこの無念に飲まれた霊魂はどうなるのか。そう、楊甜が食い下がろうとしたときである。
凄惨な現場に注意を払いすぎて、敵意に気づくのが遅れた。
周囲には槍や弓を構えた男たちが数十人。諸葛恪らは完全に包囲されてしまっていたのであった。
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