モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

文字の大きさ
18 / 89

身体も、心も、限界だ

しおりを挟む
次の日、私は盛大に寝坊した。

目を開けた瞬間、視界の端に映った時計の針を見て、
脳が一拍遅れて理解する。

――あ、これ、終わったやつだ。

「……っ!!」

飛び起きた反動で、布団が派手に床へ落ちた。
時間がない。
とにかく時間がない。
遅刻したらどうなるかは、もう十分すぎるほど学んでいる。

走り込みが増える。
スクワットが増える。
気合いが増える。

今の私に、それは致命傷だ。

「無理無理無理! 今日だけは無理だから!」

半ば叫びながら制服を引っ掴み、
上から下へ、下から上へ、とにかく着る。
鏡を見る余裕なんてない。
髪の毛? 知らない。
寝癖? 知らない。
今は命の方が大事だ。

「行ってきます!」

誰もいない部屋に向かってそう言い残し、寮を飛び出した。

朝の空気はひんやりとしていて、肺に入るたびに意識がはっきりする。石畳を蹴り、回廊へ向かって全力で走る。

ブートキャンプの日々は伊達じゃない。
正直、毎日死ぬかと思っていたけれど、こういう時だけは感謝したくなる。

「はぁ……はぁ……!」

きつい階段も、脚が悲鳴を上げながらも何とか登り切る。
視界の先に見える回廊の曲がり角。

――ここを曲がれば、教室。

間に合う。
たぶん、間に合う。

そう思った、その瞬間だった。

ドンッ!

「きゃっ!」

勢いよく何かにぶつかり、反射的に声が出た。
身体がよろけ、前に倒れそうになる。

「すまない」

低く、落ち着いた声。

その一言で、時間が止まった気がした。

この声は――。

息を飲んで、ゆっくり顔を上げる。

そこには、よく知っているはずなのに、まだ慣れない存在がいた。

澄んだ薄青の瞳。
朝の光を受けて、少しだけ柔らかく見える表情。

エルンスト。

視線が絡んだ瞬間、胸の奥が跳ねた。

「やぁ。アイナ、おはよう」

何でもない挨拶。
なのに、心臓がうるさい。

「あ……おはよう、ございます?」

なぜか疑問形になった。
自分でも意味がわからない。

エルンストは小さくクスッと笑った。
その表情が、昨日よりも近くて、昨日よりもはっきり見える。

距離が、近い。

近すぎる。

そして、彼は自然な動作で手を伸ばしてきた。

一瞬、何をされるのかわからず、身体が強張る。

指先が、私の髪に触れた。

「寝癖かな?」

柔らかい声音。
指が、ほんの少しだけ、髪を整える。

――触れた。

頭の中が、真っ白になる。

「~~~~っ」

声にならない声が喉で詰まった。
顔が一気に熱くなるのが、自分でもわかる。

やばい。
これは、やばい。

今まで誰かに頭を撫でられたことはある。
ヴィルだって、昔からよくやる。

でも、これは違う。

距離も、仕草も、空気も。

完全に、違う。

始業のベルが、学園中に鳴り響いた。

その音で、ようやく現実に引き戻される。

「あ……あ、ありがとう」

精一杯、平静を装って言う。

「じゃあ、また」

エルンストはそう言って、自然に一歩引いた。
その距離が、さっきよりも遠く感じて、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に驚く。

彼の背中を見送る暇もなく、私は教室へ駆け込んだ。

――結果。

盛大に、トレーニングは追加された。

「遅刻一歩手前だったな! 気合いが足りん!」

先生の声が響き、容赦なく増えるメニュー。

「は、はいっ!!」

返事だけは立派だが、身体は正直だ。

息は上がり、脚は震え、腕は言うことをきかない。

「はぁ……はぁ……」

床に手をつきながら、必死に呼吸を整える。

頭の中には、さっきの光景が何度も再生される。

ぶつかった瞬間。
絡んだ視線。
髪に触れた指先。

「……色んな意味で……」

疲れた、なんて言葉じゃ足りない。

身体も、心も、限界だ。

それでも。

胸の奥に残る、あの小さな高鳴りだけは、どうしても消えてくれなかった。

距離が、近くなった。

その事実が、今日一番の疲労の原因だったのかもしれない。


しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢に転生したので地味令嬢に変装したら、婚約者が離れてくれないのですが。

槙村まき
恋愛
 スマホ向け乙女ゲーム『時戻りの少女~ささやかな日々をあなたと共に~』の悪役令嬢、リシェリア・オゼリエに転生した主人公は、処刑される未来を変えるために地味に地味で地味な令嬢に変装して生きていくことを決意した。  それなのに学園に入学しても婚約者である王太子ルーカスは付きまとってくるし、ゲームのヒロインからはなぜか「私の代わりにヒロインになって!」とお願いされるし……。  挙句の果てには、ある日隠れていた図書室で、ルーカスに唇を奪われてしまう。  そんな感じで悪役令嬢がヤンデレ気味な王子から逃げようとしながらも、ヒロインと共に攻略対象者たちを助ける? 話になるはず……! 第二章以降は、11時と23時に更新予定です。 他サイトにも掲載しています。 よろしくお願いします。 25.4.25 HOTランキング(女性向け)四位、ありがとうございます!

悪女役らしく離婚を迫ろうとしたのに、夫の反応がおかしい

廻り
恋愛
第18回恋愛小説大賞にて奨励賞をいただきました。応援してくださりありがとうございました!  王太子妃シャルロット20歳は、前世の記憶が蘇る。  ここは小説の世界で、シャルロットは王太子とヒロインの恋路を邪魔する『悪女役』。 『断罪される運命』から逃れたいが、夫は離婚に応じる気がない。  ならばと、シャルロットは別居を始める。 『夫が離婚に応じたくなる計画』を思いついたシャルロットは、それを実行することに。  夫がヒロインと出会うまで、タイムリミットは一年。  それまでに離婚に応じさせたいシャルロットと、なぜか様子がおかしい夫の話。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳 ロミオ王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝🌹グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 そう名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  ✴️設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 ✴️稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

せっかく転生したのにモブにすらなれない……はずが溺愛ルートなんて信じられません

嘉月
恋愛
隣国の貴族令嬢である主人公は交換留学生としてやってきた学園でイケメン達と恋に落ちていく。 人気の乙女ゲーム「秘密のエルドラド」のメイン攻略キャラは王立学園の生徒会長にして王弟、氷の殿下こと、クライブ・フォン・ガウンデール。 転生したのはそのゲームの世界なのに……私はモブですらないらしい。 せめて学園の生徒1くらいにはなりたかったけど、どうしようもないので地に足つけてしっかり生きていくつもりです。 少しだけ改題しました。ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします。

【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。 ある日突然、兄がそう言った。 魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。 しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。 そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。 ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。 前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。 これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。 ※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です

さよなら、私の初恋の人

キムラましゅろう
恋愛
さよなら私のかわいい王子さま。 破天荒で常識外れで魔術バカの、私の優しくて愛しい王子さま。 出会いは10歳。 世話係に任命されたのも10歳。 それから5年間、リリシャは問題行動の多い末っ子王子ハロルドの世話を焼き続けてきた。 そんなリリシャにハロルドも信頼を寄せていて。 だけどいつまでも子供のままではいられない。 ハロルドの婚約者選定の話が上がり出し、リリシャは引き際を悟る。 いつもながらの完全ご都合主義。 作中「GGL」というBL要素のある本に触れる箇所があります。 直接的な描写はありませんが、地雷の方はご自衛をお願いいたします。 ※関連作品『懐妊したポンコツ妻は夫から自立したい』 誤字脱字の宝庫です。温かい目でお読み頂けますと幸いです。 小説家になろうさんでも時差投稿します。

モブが乙女ゲームの世界に生まれてどうするの?【完結】

いつき
恋愛
リアラは貧しい男爵家に生まれた容姿も普通の女の子だった。 陰険な意地悪をする義母と義妹が来てから家族仲も悪くなり実の父にも煙たがられる日々 だが、彼女は気にも止めず使用人扱いされても挫ける事は無い 何故なら彼女は前世の記憶が有るからだ

処理中です...