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第三話 私の記憶
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婚約者のトーマ様、ウスペンスキー伯爵家の次男である彼は、いつも私の幸せの記憶と結びついていました。
一番古い記憶はお母様がご存命だったとき。
お母様の親友だったウスペンスキー伯爵夫人のところを訪ねて、彼と出会ったときのことです。
アレンスキー伯爵家のご先祖が女神様に授けられた恩恵を、腐敗という言葉の印象だけで嫌がっていた私に、彼は腐敗や発酵で作られた素晴らしいものたちのことを教えてくださいました。
畜産が盛んなウスペンスキー伯爵領で、チーズやバターの製造が盛んだったからかもしれません。
腐敗や発酵には時間がかかります。私やお母様が授かった恩恵は、より良いものを作り出すための実験に使う時間を省略することが出来ました。
病弱な夫人は、お母様に父を紹介したことを心から悔やんでいらっしゃいました。
床に額を擦り付けてまで先代アレンスキー伯爵にお母様との結婚を望み、その祖父が亡くなった途端伯爵家の財産だけ手にして愛人のところへ入り浸りになった私の父は、ウスペンスキー伯爵の友人だったのです。
とはいえ、女だと侮ってお母様と私を利用しようとする輩に対して、そのころの父の存在はまだ役に立っていました。
アレンスキー伯爵家の、私とお母様の授かった恩恵は、あの日トーマ様が教えてくださった通り、本当に有益なものでした。
忠実な使用人達が助けてくれたものの、私は何度誘拐されかけたかしれません。
お母様も父がいなければ、さらに質の悪い男に襲われていたことでしょう。悪党どもはお母様の恩恵だけでなくアレンスキー伯爵家の名も欲しがっていたから、名前だけの配偶者でも父がいる状態では動かなかったのです。
父は王都の伯爵邸にも伯爵領の本宅へも帰ってくることはありませんでしたが、私はお母様と忠実な使用人達、そして婚約者であるトーマ様とともに幸せに暮らしていました。
いつか私がトーマ様と結ばれてアレンスキー伯爵家を継いだら、父のことは追い出してしまうつもりでした。
もちろん父の愛人とその娘のことなど私にはなんの関係もありません。愛する未来の夫とお母様、義両親に義兄一家、使用人達と領民と、守るべき大切な人はほかにたくさんいるのですから。
──お母様が亡くなったのは、私が十二歳のときでした。
それまでも無視出来てはいなかった綻びが、一気にほどけました。
父は……あの血のつながった他人は、お母様の葬儀の日に愛人とその娘を王家の伯爵邸へ連れ込んだのです。
心ある使用人達が意見しましたが、私はまだ成人でもないし結婚もしていません。家督は継げなくても領地運営の決定権をある程度許される学園への入学後なら、少しは違ったのかもしれませんけれど……むしろだからこそ、そのときだったのでしょう。アレンスキー伯爵代理の父は自分に逆らった使用人達を解雇しました。
そのとき解雇された使用人達は、幸いアレンスキー伯爵家と取り引きのある商会で再就職出来ました。
ですがお母様亡き今、父の一存で使用人達が解雇されると紹介状なしで再就職先を探してもらわなくてはならなくなります。商会に甘え続けることも出来ません。
私は、私が伯爵を継ぐまでは父達の言うことに従ってくれるよう彼らに頼みました。
もっともそれでも父達は元からいる使用人を信用出来なかったようで、どう贔屓目に見てもならず者にしか見えない人間を雇い始めました。
父は自分で伯爵家を運営することなど出来なかったので、最初の数人以外の使用人が解雇されることはありませんでした。
入り婿でありながら伯爵邸へ愛人とその娘を連れ込んだ父に対する悪評も広がっていましたし、大義名分もなく使用人を解雇することで、これ以上貴族社会に厳しい目を向けられたくないと思ったのでしょう。いっそ父がもっと愚かなら、代理の資格すらなしとされて、私にはべつの後見人がついてくださっていたのでしょうに。
私に嫌がらせを繰り返す愛人やその娘を伯爵邸から追い出すのは簡単なことでしたが、父まで巻き込めるわけではありません。
また彼女達は、本気で怒ったほうが大人げないとされるようなチクチクとした嫌がらせばかりしていたのです。
どんなに小さな嫌がらせでもされたほうは傷つくのに、正義ぶって罪人を庇う人間はどこにでもいます。特に貴族社会には。
生命と貞操だけ守れれば良いと思い、私は彼女達を野放しにしました。
使用人も父達に従う振りをしながら私を助けてくれました。
学園に入学したら一日の大半を学園で過ごせるし、同学年だからといって愛人の娘も人前ではなにも出来ないでしょう。……なんてことを思っていた私は愚かでした。
私が学園での勉強と伯爵領の運営に尽力している間に、婚約者のトーマ様が愛人の娘の虜になっていたのです。
トーマ様は寂しかったのかもしれません。
学園に入学した最初の長期休暇で、以前から病弱だったウスペンスキー伯爵夫人がお亡くなりになりました。
そのころの伯爵夫人は、病弱だった自分より先に私のお母様が亡くなったのはおかしいと言って、いろいろと調べてくださっていました。
トーマ様は、私のお母様のせいでご自分の母君が亡くなったのだと思われたのかもしれません。
もしかしたら父がなんらかの関与をしたと思われたのかもしれません。
それを言うなら愛人の娘だって父の娘なのに、と思いもします。けれど、仕方がなかったのかもしれません。ウスペンスキー伯爵夫人がお亡くなりになられたとき、私はアレンスキー伯爵領にいたのです。
王都のアレンスキー伯爵邸で、遠く離れたウスペンスキー伯爵領から時間を経て届いた母君の訃報を聞かされて、泣き崩れるトーマ様を抱き締めたのは愛人の娘だったと言います。
一番古い記憶はお母様がご存命だったとき。
お母様の親友だったウスペンスキー伯爵夫人のところを訪ねて、彼と出会ったときのことです。
アレンスキー伯爵家のご先祖が女神様に授けられた恩恵を、腐敗という言葉の印象だけで嫌がっていた私に、彼は腐敗や発酵で作られた素晴らしいものたちのことを教えてくださいました。
畜産が盛んなウスペンスキー伯爵領で、チーズやバターの製造が盛んだったからかもしれません。
腐敗や発酵には時間がかかります。私やお母様が授かった恩恵は、より良いものを作り出すための実験に使う時間を省略することが出来ました。
病弱な夫人は、お母様に父を紹介したことを心から悔やんでいらっしゃいました。
床に額を擦り付けてまで先代アレンスキー伯爵にお母様との結婚を望み、その祖父が亡くなった途端伯爵家の財産だけ手にして愛人のところへ入り浸りになった私の父は、ウスペンスキー伯爵の友人だったのです。
とはいえ、女だと侮ってお母様と私を利用しようとする輩に対して、そのころの父の存在はまだ役に立っていました。
アレンスキー伯爵家の、私とお母様の授かった恩恵は、あの日トーマ様が教えてくださった通り、本当に有益なものでした。
忠実な使用人達が助けてくれたものの、私は何度誘拐されかけたかしれません。
お母様も父がいなければ、さらに質の悪い男に襲われていたことでしょう。悪党どもはお母様の恩恵だけでなくアレンスキー伯爵家の名も欲しがっていたから、名前だけの配偶者でも父がいる状態では動かなかったのです。
父は王都の伯爵邸にも伯爵領の本宅へも帰ってくることはありませんでしたが、私はお母様と忠実な使用人達、そして婚約者であるトーマ様とともに幸せに暮らしていました。
いつか私がトーマ様と結ばれてアレンスキー伯爵家を継いだら、父のことは追い出してしまうつもりでした。
もちろん父の愛人とその娘のことなど私にはなんの関係もありません。愛する未来の夫とお母様、義両親に義兄一家、使用人達と領民と、守るべき大切な人はほかにたくさんいるのですから。
──お母様が亡くなったのは、私が十二歳のときでした。
それまでも無視出来てはいなかった綻びが、一気にほどけました。
父は……あの血のつながった他人は、お母様の葬儀の日に愛人とその娘を王家の伯爵邸へ連れ込んだのです。
心ある使用人達が意見しましたが、私はまだ成人でもないし結婚もしていません。家督は継げなくても領地運営の決定権をある程度許される学園への入学後なら、少しは違ったのかもしれませんけれど……むしろだからこそ、そのときだったのでしょう。アレンスキー伯爵代理の父は自分に逆らった使用人達を解雇しました。
そのとき解雇された使用人達は、幸いアレンスキー伯爵家と取り引きのある商会で再就職出来ました。
ですがお母様亡き今、父の一存で使用人達が解雇されると紹介状なしで再就職先を探してもらわなくてはならなくなります。商会に甘え続けることも出来ません。
私は、私が伯爵を継ぐまでは父達の言うことに従ってくれるよう彼らに頼みました。
もっともそれでも父達は元からいる使用人を信用出来なかったようで、どう贔屓目に見てもならず者にしか見えない人間を雇い始めました。
父は自分で伯爵家を運営することなど出来なかったので、最初の数人以外の使用人が解雇されることはありませんでした。
入り婿でありながら伯爵邸へ愛人とその娘を連れ込んだ父に対する悪評も広がっていましたし、大義名分もなく使用人を解雇することで、これ以上貴族社会に厳しい目を向けられたくないと思ったのでしょう。いっそ父がもっと愚かなら、代理の資格すらなしとされて、私にはべつの後見人がついてくださっていたのでしょうに。
私に嫌がらせを繰り返す愛人やその娘を伯爵邸から追い出すのは簡単なことでしたが、父まで巻き込めるわけではありません。
また彼女達は、本気で怒ったほうが大人げないとされるようなチクチクとした嫌がらせばかりしていたのです。
どんなに小さな嫌がらせでもされたほうは傷つくのに、正義ぶって罪人を庇う人間はどこにでもいます。特に貴族社会には。
生命と貞操だけ守れれば良いと思い、私は彼女達を野放しにしました。
使用人も父達に従う振りをしながら私を助けてくれました。
学園に入学したら一日の大半を学園で過ごせるし、同学年だからといって愛人の娘も人前ではなにも出来ないでしょう。……なんてことを思っていた私は愚かでした。
私が学園での勉強と伯爵領の運営に尽力している間に、婚約者のトーマ様が愛人の娘の虜になっていたのです。
トーマ様は寂しかったのかもしれません。
学園に入学した最初の長期休暇で、以前から病弱だったウスペンスキー伯爵夫人がお亡くなりになりました。
そのころの伯爵夫人は、病弱だった自分より先に私のお母様が亡くなったのはおかしいと言って、いろいろと調べてくださっていました。
トーマ様は、私のお母様のせいでご自分の母君が亡くなったのだと思われたのかもしれません。
もしかしたら父がなんらかの関与をしたと思われたのかもしれません。
それを言うなら愛人の娘だって父の娘なのに、と思いもします。けれど、仕方がなかったのかもしれません。ウスペンスキー伯爵夫人がお亡くなりになられたとき、私はアレンスキー伯爵領にいたのです。
王都のアレンスキー伯爵邸で、遠く離れたウスペンスキー伯爵領から時間を経て届いた母君の訃報を聞かされて、泣き崩れるトーマ様を抱き締めたのは愛人の娘だったと言います。
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