もしも嫌いになれたなら

豆狸

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第五話 彼は戻ってきた。

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「ええい、テナシテを睨みつけるなッ! 本当に心根の貧しい女だな、貴様は」

 殿下が私を怒鳴りつけたとき、

「心根が貧しいのは貴方ではございませんか、殿下」

 涼やかな凛とした声が会場に響き渡りました。
 声がした方向の人混みが左右に割れて、ひとりの青年が姿を現します。
 彼は第二王子殿下と一緒でした。

 現れた青年を見て、子爵令嬢が顔色を変えました。

「ファビアン?」

 青年へと駆け寄ろうとしたテナシテ様の腕を殿下が掴みます。
 殿下のお顔は憎悪に満ちています。
 殿下を見る青年、ファビアン様の顔も憎悪に満ちていました。その憎悪は婚約者のテナシテ様にも向いているようです。

 ファビアン様がおふたりの前へ足を踏み出します。

「殺したはずの僕が戻ってきて驚いているようですね、殿下もテナシテも」
「……殺した?」

 テナシテ様は大きな瞳を丸くして、しばらくしてから殿下に視線を移しました。
 殿下は憎々しげな表情でファビアン様を睨みつけています。
 その手はテナシテ様の腕を離しません。

「とぼけないで良いんですよ、テナシテ。貴女は王太子殿下と結ばれたくて、邪魔な婚約者の僕を殺そうとしたのでしょう? 幸い一緒にいたマクシム殿が助けてくれました。それからは僕を狙う黒幕の正体を探るために身を隠していたのです」
「なにそれ……アタシ、知らない。アタシはただファビアンがいないのが寂しくて、それで仕方なくジョゼと一緒にいただけよ? 公爵令嬢との婚約破棄だってジョゼが勝手にしたことで、アタシは関係ないわッ」

 ファビアン様の顔から憎悪が消えて、代わりに憐れみが浮かんできました。

「僕がいなかったことは婚約者のいる男性と仲良くする理由にはなりませんよ。貴女が寂しさを癒してもらっている間、殿下の婚約者である公爵令嬢が寂しさを味わっていたとは考えなかったんですか?」
「そ、そんなのッ。ジョゼに相手にされない公爵令嬢が悪いのよ! それにアタシ、ファビアンさえ戻ったらジョゼとはちゃんと別れるつもりだったわ」

 そこでテナシテ様の眉間に皺が寄ったのは、殿下が彼女の腕を掴む手に力を込めたからかもしれません。

「テナシテ……貴女には、寂しさを癒してくれた殿下への感謝や思いやりの気持ちさえないんですね。子爵令嬢には不相応な高価な贈り物もいただいていたのでしょう?」
「ジョゼがアタシを好きだって言うから付き合ってあげただけだわ! ジョゼは王太子なのよ? 子爵令嬢のアタシが逆らえるはずないじゃない。……離してよッ」

 テナシテ様は殿下の手を振りほどいて、ファビアン様に駆け寄りました。

「殺そうとしただなんて知らない! アタシがファビアンを殺すはずないでしょッ。アタシはファビアンを愛してるんだから!」

 それは事実のように思えました。
 テナシテ様は必死です。大きな瞳から本当の涙が溢れ出しています。
 ファビアン様は無言で溜息をつき、第二王子殿下に場所を譲りました。

「兄上、私は父上から今回の件を任されました。伯爵子息の発言だけではなく、きちんとした裏付けもすでに取れています。……恋に溺れて臣下を暗殺しようとする人間に、王太子の器はありません。貴方は廃太子となり、殺人未遂の罪で裁かれます」

 がっくりと床に膝をついた殿下を振り返ることもなく、テナシテ様は第二王子殿下を押し退けてファビアン様を追おうとしています。
 彼女は心から彼を愛しているのです。
 少し離れた位置で見守っていた第二王子殿下の護衛騎士達が、迅速にテナシテ様を取り押さえました。

「……お嬢」
「マクシム……」
「ごめんな、ファビアン殿のことで騙してて」
「いいえ、お父様の命令だったのでしょう? 黙っていてくれて良かったです」

 先に聞いていたら、私はどうしていたでしょう。
 ジョゼ王太子殿下を助けて欲しいと、父にお願いしていたかもしれません。
 私が頼んだら、父はきっとファビアン様を排除してでも殿下を守ってくれたでしょう。以前の繰り返しで父は、私のためにテナシテ様をあやめたこともあるのです。

「ファビアン、ファビアン、ファビアぁンッ!」

 第二王子殿下の護衛騎士に取り押さえられたテナシテ様が、泣きながら婚約者の名前を呼んでいます。
 そこまで愛しているのなら、どうして彼が側にいないというだけでジョゼ殿下と過ごしていたのでしょう。
 王太子である殿下が怖くて拒めなかったのなら、婚約者である公爵令嬢の私や学園の教員に相談すれば良かったのに。

 いいえ、本当は知っています。
 テナシテ様にとってジョゼ殿下は都合の良い大きなお財布でした。
 以前の繰り返しで王太子の強権を失った殿下から逃げたのは、確かにファビアン様のほうを愛していたのもあるでしょう。けれどそれだけではなく、廃太子となった殿下に旨味を感じられなくなったからもあったのでしょう。王太子の強権で迎え入れられるときも、口では嫌だと言いながら私には煽るような視線を向けてきましたものね。

 テナシテ様が心からジョゼ殿下を愛する日は来ないのでしょうか。
 私は十八歳。後四年で二十二歳になります。
 時間はまた戻り、私は悪夢を繰り返すのでしょうか。

「お嬢」

 第二王子殿下が卒業パーティの解散を宣言して、会場から人々がいなくなっていきます。
 涙を堪えられなくなった私をマクシムが支えてくれました。
 どうしたら人の心に愛を芽生えさせることが出来るのでしょう。なにをしても徒労に過ぎないのかもしれません。自分の心でさえ自由にならないのですから。
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