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(16)静かに交差する矢印
しおりを挟む夜が訪れると、ギルフォード邸の中庭に、思いがけない賑わいが広がった。
松明の灯りに照らされた空間には、手作りの長机が並び、湯気の立つ料理や甘い香りの果実酒が所狭しと置かれていた。里の人々が次々と集まり、誰彼かまわず杯を交わしながら笑い合っている。普段は厳格な表情が多いルナルディまでもが、酒に頬を赤らめ、肩を揺らしていた。
アイザックとテオは、まさか自分たちのためにこんな宴が用意されているとは思わず、目を丸くしていた。
「なんで歓迎されてんだ。俺たちは、リアを連れ戻しに来たんだぞ?」
困惑するアイザックの呟きに、すぐ傍で杯を口に運んでいたギルフォードが肩をすくめた。
「どんな理由であれ、来客は来客だろうが」
言葉こそ素っ気ないが、その言い草は、どこか申し訳なさを誤魔化すようだった。そして、確かな気遣いが含まれている。
気がつけば、中庭は騒然としていた。
「ギル、お庭ぐちゃぐちゃ!」
「お前がこの前暴れて壊したんだわ! ったく、おかげで庭が広ぇったらありゃしねえ」
子供たちが駆け回り、転び、立ち上がり、また笑う。
大人たちもそれに負けじと声を上げ、飲み交わし、手拍子を打つ。夜風に混じって流れてくる笛の音が、不思議と胸を温めた。この空間だけが、世界から切り離されているようだった。
――この場所は、本当に、ただの異郷だっただろうか。
アイザックとテオは、それぞれにそんな思いを抱きながら、目の前の賑わいを見つめていた。
数刻が過ぎた中庭の片端、少し外れた木の根元に背を預け、一人で腰を下ろしたのはテオだった。人に囲まれるのに疲労したのか、遠巻きに賑わう人々の笑い声を聞いていた。
そんな彼に、ふいに声がかかる。
「こんばんは。私のこと、覚えてる?」
振り向くと、そこにいたのはリーゼロッテだった。薄い布のショールを肩にかけ、月明かりの下で涼やかな眼差しを向けている。
「あ……はい。もちろん」
テオは少し驚きながらも答えた。初対面の時の印象が強かったこともあり、彼女の声色がこんなにも穏やかだったことに、今さらながら気付く。
リーゼロッテは、小さく微笑むだけで何も言わない。そのまま彼の隣に腰を下ろし、膝に手を重ねた。
「リアのことが好きなのね」
突然の言葉だった。テオは思わず彼女の顔を見る。
だが、その視線はテオには向けられていなかった。リーゼロッテの瞳は、人混みの向こうを見つめていた。他の者に笑いかけられても、煙たそうにして応じているギルフォード。その姿を、じっと見つめていた。
「……あなたも、好きなんですか」
気がつけば、テオはそう口にしていた。誰のことを、と言わずとも、それはもう明らかだった。
リーゼロッテは、ゆるく首を傾け、月の光を受けながら静かに答える。
「ええ。ずっと前から……これからもずっと、かしらね」
風が枝葉を揺らし、影が地面に揺れた。
その声音は、とても静かだったけれど、どこかで長い時間を経て削られた石のように、寂しさと諦めが混ざっていた。
テオは何も言えなかった。彼女もまた、変化が寂しいのだと、ただそう思った。ふと、視線を輪の中へ戻す。そこには、笑いながらアルバンを含む子供たちと手遊びをしているリアの姿があった。
どこも変わっていないはずだった。幼なじみとして隣にいた彼女と、目の前で人々に囲まれる彼女は、同じはずだ。
けれど――今のリアは、まるで別人のようだった。
穏やかに笑い、誰にでも優しく、けれどきちんと距離をとる。その姿は、彼女がこの場所で、誰かとして生きてきたことをはっきりと語っていた。
そして、ギルフォードの隣に立つとき、リアの表情は微かに変わる。その変化を、誰よりも敏感に感じ取ったのは、きっとテオ自身だった。彼の知らない笑い方、知らない距離のとり方。そのすべてが、遠く感じられた。
宴の灯火は、まだ消えそうにない。
夜の風に混じって、誰かの笑い声と、遠くで鳴る笛の音が響いていた。
◇
宴は、いつしか自然にお開きとなった。
火の粉が静かに舞う中、皆がそれぞれ名残を惜しむように、使った食器や椅子を片付け始める。頬を赤らめたままの大人たちがふらつきながらも器を重ね、子供たちははしゃいだ余韻のまま、最後のいたずらのようにテーブルの下をくぐっていた。
「お前らはもう戻って休め。客なんだからよ」
ギルフォードの声に、リアとテオ、アイザックは一度は頷いたものの――そのまま引き下がるような性格でもなかった。
「いえ、手伝います。兄たちのために用意してくださったのですし」
そう言ったリアに、アイザックも「あぁ」と頷き、テオはそれに続くように黙って器を拾い上げた。それぞれが持ち場を探し、静かに動き出す。少し落ち着いた宴の空気の中にも、まだ温かい名残が残っていた。
◇
中庭の隅、果実の皮を捨てる木箱のあたりで、リアが一人で後片付けをしていると、ふいに気配が近づく。
「リア」
「あ、テオ。どうしたの?」
「そこの、まとまった皿、運ぼうと思って」
素朴な言葉に、リアはくすりと笑った。
「ありがとう。助かる。これ、そっちの木箱に下げてもらっていい?」
「あぁ」
差し出された器を受け取るその手に、一瞬、指が触れた。けれどリアはそれに気づいたふうもなく、続けて布を取りに歩き出す。
並んで器を集めながら、二人は何気ない話を交わす。村のこと、今日の子供たちのいたずら、アイザックが果実酒を飲んでむせていたこと――そんな些細なことで、声を出して笑い合う。まるで以前のような、無邪気な時間だった。
だが、その様子を、少し離れた場所から眺めている者たちがいた。
◇
「リアに、べったりね」
リーゼロッテの言葉に、横で桶を運んでいたエルマーが首を傾げた。
「ん? ……ああ、テオのことか」
彼の目もまた、器を手に笑い合うリアとテオへ向いていた。
リーゼロッテは、何でもないような口ぶりで言葉を継ぐ。
「ええ。きっと、あの子、リアのことが好きなのよ」
「………。」
エルマーは返事をしなかった。ただ一拍の沈黙の後で、顔を拭うように額に手をやりながら、ぽつりと呟いた。
「リーゼ」
「なあに?」
「……いや」
言いかけて、エルマーは視線を前に戻す。リアとテオ、そしてその先で静かに何かを片付けているギルフォードの背が見える。ギルフォードは、腰に巻いた布を結び直しながら、器の山を手際よくまとめていた。
「お前がギルを好きなのも、分かってるけどよ」
エルマーの声は低く、けれど穏やかだった。
「……あんまり、リアにちょっかい出すなよ」
一瞬、風の音が間を埋めた。
リーゼロッテは、ほんの僅かに目を細めたあと、からかうように口元を緩めてみせる。
「そんなことしないわよ。私、そんなに子供じゃないもの」
返答は柔らかで、どこまでも自然だった。
けれど――エルマーの目は、その笑みの奥にあるものを見逃さなかった。
彼は知っている。式の衣装合わせに来たリーゼロッテが、リアに対して“自分はギルフォードの婚約者だった”と伝えたことを。なぜその話をしたのか、それを語った彼女の真意は、結局のところ、何ひとつ明かされてはいない。
エルマーは、彼女の横顔をちらと見やった。
――笑っているけど、本心は見せてない。
けれど、問い詰めるでもなく、彼はただ片付けの作業に戻る。やがて桶の中の皿を整え、腕を拭いながら、低く鼻を鳴らした。
「まぁ……なんだかんだ、良い夜だったな」
それに対しての返事の代わりに、リーゼロッテがひとつ笑った。月はすでに高く、夜気は少しずつ冷えてきていたが、中庭にはまだ温かな気配が残っていた。
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