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(15)懐かしい味と知らない君②
しおりを挟む夕暮れが、里の空を淡く染めていた。昼間の陽射しが和らぎ、風に含まれる匂いが草や土のものへと変わっていく頃。ギルフォード邸の広間では、エルマーが口の端を大きく上げて笑っていた。
「せっかく来てくれたんだし、あんま籠ってても退屈だろ?」
明るい声に、リアの背後にいたアイザックとテオが同時に顔を上げる。ニカッと笑うエルマーは、軽く手を上げながら近づいてきて、肩にかかる自分の羽を片手で払った。
「だからさ、案内してやるよ。里ん中、まだ見てないとこも多いだろ?」
そう言われ、アイザックとテオは視線を交わした。戸惑いがまじるのは当然だ。竜族の里は未知の場所で、言葉も文化も違う。それでも、リアが今ここで暮らしているのだと思えば、知らずにいるわけにはいかないという思いもある。
「……断る理由も、ないか」
ぽつりと呟いたアイザックに、テオも小さく頷いた。
「じゃあ、私も着替えてくるね」
リアは少し目を丸くしていたが、すぐに微笑み、部屋の奥に引っ込んでいく。
支度を整え、全員で玄関に向かったときだった。扉の向こうから、重い足音が聞こえる。次の瞬間、姿を現したのは、昼間からずっと書斎に篭っていたはずのギルフォードだった。
「俺も行く」
「え!? あの量の書類、もう終わらせたのかよ?」
「余裕だわ」
唐突な宣言に、一同が一瞬静まる。すぐに声を出したエルマーを受け流すと、ギルフォードは髪に指を突っ込むようにしてガシガシと前髪をかき上げ、ちらりと横目でエルマーを見た。
「案内っつっても、どうせてめぇだけじゃまともに説明できねぇだろ」
「うわー、信用ねぇなー!」
軽く笑ってみせるエルマーだったが、その目はどこか嬉しそうだった。ギルフォードの足取りはやや重い。だが、それでも来ると決めたのは、理由があるのだろうと誰もが察していた。
扉を開ければ、風がすっと抜けた。日が傾く石畳の道を歩きながら、彼らは里の中心部へと向かう。広間を抜けた先には、行き交う人々の声、子供たちの笑い声、生活の匂い。活気の中に、確かに人の営みがあった。
最初に姿を現したのは、白銀の髪を風に揺らすリーゼロッテだった。緩やかな坂の上から、ゆっくりと彼らへと歩み寄ってくる。陽光に照らされた長い睫毛の奥、その紫の瞳がリアをとらえた瞬間、彼女の目元が僅かに和らいだ。
「あら、リア。……みんなでお買い物?」
口調はあくまで柔らかい。だがその奥に、小さく揺れる何かがあるのを、リアはすぐに感じ取った。
「はい。今、兄と友人が来ていて……皆さんが案内してくださってるんです」
にこやかにそう答えるリアの横顔を、リーゼロッテは、じっと見つめた。細く目を伏せると、微かに唇を噛み――すぐに小さく笑みを作る。
「いいわね。今日は晴れてるし、観光日和よ。いろいろ見て回れるといいわね」
「ありがとうございます」
微笑みに込められたのは、祝福とも、距離ともつかない曖昧な温度だった。
リーゼロッテは、リアの幸せそうな表情を見て、安堵しきれない感情が未だ混じっている。かつて自分の中に芽生えた複雑な気持ちは、今も完全には消えていないことを、彼女自身が一番よく分かっていた。
「初めまして、リーゼロッテです」
自分を整えるように、軽く会釈をして名乗る彼女に、反応したのはアイザックだった。
「……あ、えっと、どうも」
緊張したような声音で、僅かに頬を染めて視線を逸らす。竜族という異形の存在に対する驚きよりも、目の前の女性の気品に、戸惑いが勝ったのかもしれない。
「こんにちは。お邪魔してます」
一方のテオは、軽く頭を下げながら自然に挨拶を返す。その表情は穏やかで、僅かに目尻を緩めていた。――けれど、彼の視線が一瞬だけリアの方へと流れたのを、リーゼロッテは見逃さなかった。
その刹那、リーゼロッテの胸の奥にまた少し、何かがさざめいた。挨拶を終えると、少しだけリアを見て、何かを言いかけるような素振りを見せ――けれど、それを胸の奥にしまい込むようにして、静かにその場を後にした。
そのとき、賑やかな声が風を切って届いた。
「リアーっ! あれ、ギルもいるじゃん! えっ、人間も!? へええ、なんか珍しい組み合わせだね!」
ぱたぱたと駆けてきたのはメルヴィだった。橙の髪が陽を浴びて、きらきらと踊る。笑顔を浮かべ、彼女は迷いなくリアのもとへ駆け寄った。
「ふふ、相変わらず元気だね」
「うるせぇだけだわ」
「なにそれーっ、ギルが暗いんでしょ!?」
「勝手に言ってろ」
ギルフォードの投げやりな声に、リアが小さく吹き出した。
「はいはーい! お前ら、そんな言い方すんなって!」
呆れたように肩をすくめるメルヴィに、エルマーが横から笑って突っ込む。軽快なやりとりに場が和み、空気が少しだけ柔らかくなる。
アイザックとテオは、その様子を言葉少なに見つめていた。異なる種族、異なる価値観。けれど、そこに確かに笑いがあり、交わされる思いがある――そんな空気が、彼らを徐々に包み込んでいった。
そして、最後に現れたのは、幼い声を響かせながら駆け寄ってきたアルバンだった。
「あー! リア! ギルー!」
無邪気に名を呼びながら駆け寄るその姿を、リアはしゃがんで迎える。細い腕を広げると、アルバンは満面の笑顔で彼女の胸に飛び込んだ。
「リア、こんにちは。また遊んでくれる?」
「こんにちは。はい、もちろんです」
リアの柔らかな返事に、アルバンは満足そうに頷くと、ギルフォードの方にも手を振った。
「ギルとリアって、いつも一緒なんだね!」
「そんなわけねえだろ」
呆れたように返しながらも、ギルフォードは視線を外さなかった。リアと子供が自然に触れ合う光景。その様子を見て、各々の胸には、異なる感情が広がっていく。
アイザックの胸にあったのは、恐らく悲観だった。妹がこの異端な場所で馴染んでいくのを、喜びきれないまま見つめる兄の視線は、どこか哀しげだ。
そして隣にいるテオの目には、後悔が滲んでいる。あの日、この地までリアを送ってしまったこと。村にいる間に、告げられなかった想い。けれどその想いは、彼女に手を伸ばすにはあまりに遅く、遠すぎた。こうして彼女が別の世界で誰かと笑っているのを、胸の痛みとともに見ているしかなかった。
「なーんか……平和じゃね? なぁ、ギル?」
そう笑うエルマーはと言えば、どこかほっとしたような顔をしていた。明るく話すリア、徐々にだが、確実に変わっていくギルフォード。その空気を肌で感じ、何かが動き始めていることを受け止めていた。
エルマーから話しかけられたギルフォードは、リアから視線を逸らすことなく、ただ感心していた。人間という種族が、ここまで自然に――しかも子供までをも虜にするかのように――この里に馴染んでいくという現実に。
「……やるな」
彼が呟いたその声は小さく、誰の耳にも届かない予定だった。けれど、それが彼の胸に確かに生まれた変化の音であることを、隣にいたエルマーだけは確かに聞き取っていた。
エルマーは何も言わずに、ただにやりと笑う。ギルフォードのその一言が、確かに誰かを受け入れ始めた証だと、彼だけは気付いていた。
◇
リアの首にしがみついていたアルバンは、ふと顔を上げると、視線を巡らせていた。人見知りはしない子だが、目に映るのはまだ見慣れぬ人間の姿――アイザックとテオ。好奇心が勝ったのか、くるりと首を回してリアを見上げる。
「ねぇ、リア。あの人間たちって、リアの友達?」
無邪気な問いに、リアは瞬きを一つ。それから、どこかくすぐったそうに頬を緩めて頷いた。
「はい。兄と幼馴染です。だから、家族みたいなものですよ」
そう言うと、アルバンはぽかんと目を瞬かせ、やがて――ぱあっと笑った。
「じゃあ、僕も家族? ねぇ、僕も!」
その言葉に、リアの胸がぎゅっとあたたかくなる。小さな頭にそっと手を置いて、優しく撫でた。
「もちろん。アルバン様も、私にとって大事な家族です」
嬉しそうに喉を鳴らして笑うアルバンの様子を、傍らのアイザックがじっと見ていた。そして、リアの肩越しに声をかける。
「……けど、ここにいるお前の家族は、本来俺だけのはずだろ」
その声音には、懐かしさと、どこか置いていかれるような寂しさが混じっていた。
「悪い場所じゃないってことは、分かった。だが……やっぱり戻ってきてくれ。お前は村の人間で、俺の家族だ」
リアが何かを返すより早く、腕の中のアルバンの体がびくりと震えた。彼はリアを見上げ、唇を震わせながら呟く。
「……リア……? どこか行っちゃうの……?」
「……いいえ」
リアは即座に首を横に振った。咄嗟に、怖がらせないようにと声色を和らげる。
続いて、テオが口を開く。感情を押し殺したような声で、アルバンに向き直った。
「リアが、ここにいるってことが特別なんだ。だから……帰るって言い方が正しいかな」
けれど、その言葉が逆にアルバンの不安を煽ってしまったのだろう。少年の肩が細かく震え始め、瞳にはあっという間に涙が浮かぶ。
「う……う、うぅ……!」
その様子に、ギルフォードが即座に反応した。
「全員、下がれ!」
凛とした鋭い声が、辺りに響いたのとほぼ同時。抑えきれなくなった感情が爆ぜるように、アルバンが顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。
「うわぁぁぁぁぁん!!」
その瞬間――彼の身体が光に包まれた。泣き声と同時に、白銀の鱗が弾けるように現れ、小さな手足が変じ、尾が伸び、翼が広がる。感情に呑まれ、制御の利かない幼き竜の姿が、そこにあった。
――ごぉっ、と風が巻いた。
「――リア!!」
ギルフォードが、誰よりも早く動いた。
鋭い声が耳を撃つと同時、世界が急に傾いたように感じた。何かが伸びてきて、リアを強く引き寄せる。気付けば地面に背を預けていた。覆いかぶさるようにして、ギルフォードの体が彼女の上にあった。
どさり、と音がして、舞い上がった塵の匂いの中――リアは一瞬、息を呑んだ。
――近い。眩暈がするほど、近い。
ギルフォードの肩越しに見える空は、白く霞んでいた。けれど、それ以上に意識を奪ったのは、背に感じる腕の力強さと、彼の体から伝わってくる熱だった。鼓動が、速いのか遅いのか分からない。ただ、自分のではない確かな拍動が、胸に近いところで脈打っていた。
ぎゅ、と抱き寄せられる。そのままギルフォードは立ち上がり、リアをその腕の中に抱えたまま、距離を取るように足を運ぶ。
「怪我は!」
耳元で飛んだその声は、低く荒く――だが、深く胸に響いた。
「な、ないです!」
思わず裏返った声を返すと、彼は短く頷き、リアをそっと地面に降ろした。
「よし」
その一言の重さに、胸がまた跳ねた。気付けば、もうすでにアルバンとの距離は充分に確保されている。
ギルフォードは、怒りの気配を纏いながら振り返り、竜化した幼子に向かって叫ぶ。
「アルバン!! てめぇ、すぐに泣くなっつってんだろーが!!」
低く唸るような声に、周囲の空気が震えた。リアはその背中を見つめながら、その場にへたりと腰を下ろした。
「リア!」
「大丈夫か!?」
駆け寄ってきたアイザックとテオの顔が、視界に入る。だが、リアは顔を上げることができなかった。ただ耳まで赤く染まった頬を伏せて、小さく呟く。
「だ……大丈夫……」
言葉とは裏腹に、心臓の鼓動は荒くなっていた。突然の変化、驚き、そして――ギルフォードの逞しい腕に、守られるように包まれていた感触。自分を覆った彼の体温。息が詰まりそうで、頬が熱を持っていた。
そのとき、竜の姿をしたアルバンが鼻を鳴らした。
『リア、ごめんなさぁぁぁい……!!』
ギルフォードから叱られ、先ほどよりも激しくしゃくりあげる声は、どこまでも悲しげだった。リアはすぐに立ち上がり、歩み寄る。
「大丈夫ですよ。気にしないでください。びっくりしただけですから」
彼女がそっと語りかけると、竜の瞳が潤んだまま瞬いた。
『うう……おばあちゃんにも、怒られちゃう……』
「それは……どうでしょうか……」
苦笑混じりに返すリアの声に、アイザックとテオが同時に顔を上げる。だが、彼らの耳には、アルバンの言葉はただの鳴き声にしか聞こえなかった。
それでも、リアは言葉を交わしていた。まるで当然のように、優しく穏やかに、誰もが理解できない声と意味を正確に受け取っている。
その様子を、アイザックはじっと見つめ――ようやく、理解し始めた。
妹が、ここで何者であり、どんな存在として受け入れられているのか。そして、この里が、決してただの異郷などではなく、リアにとっての居場所になりつつあることも。
誰もがそれぞれに思いを抱えたまま、穏やかだった夕暮れは、少しだけ複雑な色を帯び始めていた。
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