クールな義兄の愛が重すぎる ~有能なおにいさまに次期当主の座を譲ったら、求婚されてしまいました~

槿 資紀

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第十話 別離

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 どうやら、命を落とすまでには至らなかったようです。僕はふたたび目覚め、自分が寝ている場所が、イェント公爵邸の自室であることを認識しました。

 誰かが僕の手を握ってくださっています。細くやわらかな二つの手が、僕の片手を包み込んで、小刻みに震えていました。

「リエル……? リエル、リエル……っ、ああ、よかった、目を覚まして……」

「おかあ、さま……」

 おっとりとした垂れ目から、しとどに涙を零し、お母様は何度も頷いて、覆いかぶさるように、僕を抱きしめてくださいます。どんなに心配をかけたことだろうと、罪悪感がせり上げてきました。

「もうしわけ、ありません……イェントの名に、泥を、塗って、しまいました……」

「いいえ、違うわ……私が悪いの、貴方を頑丈に産んであげられなかった、私が……」

 お母様は、嫋やかで繊細な居ずまいとは裏腹に、弱音などは決しておっしゃらない、気丈な女性です。

 そんなお母様が、はじめて僕に、このような弱音を吐露なさった。きっと、僕が産まれてからずっと、心の中に抱え、秘めていらしたのでしょう。

 しかし、その言葉が、肩の荷を下ろして、僕の心を丸裸にしてくれました。もう、お母様の前で、身の丈に合わない振る舞いなどしなくていいと、そう思えたのです。

「お母様……僕はもう、無理です。本当は、ずっと前から、限界でした……僕に、イェントを背負えるはずがなかったんです……分かっていたけれど、それでも、逃げるわけにはいかないという意地で、しがみついていました。それがどんなに無様かも理解せずに。きっと、発作がぶり返したのも、身の程を弁えろという、女神様の思し召しに違いありません……」

「リエル、どうか、そんな悲しいことを言わないで……貴方は本当に頑張ったわ。頑張って、頑張って、心身を限界まですり減らしても、ひたすらに……女神様は、お許しくださったのよ、もう逃げてもいい、自分を責めなくていいと……そうお認めになってくださったの」

 たとえ、女神様がお許しでなくとも、母は、貴方が生きていてくれるだけで、幸せなのですよ――その言葉は、イェントの人間としては、決して許されないものです。

 お母様は、やはり、強い御方だと思いました。

「ねえ、リエル。あなたの大叔父様が、早くに跡継ぎを亡くされていてね。ノルムという山岳地の小さな領地を治めていらっしゃるのだけれど……大叔父様の領地はとても長閑で、空気も領民も穏やかで、貴方に合っていると思うの。大叔父様の養子に入って、ノルムを受け継いで暮らしていくのはどう? 何か困ったことがあれば、イェントからも支援が出来るでしょうし、私の兄のエカランジュ伯にも融通してもらえるはずよ」

「……いいのでしょうか? 僕なんかが、そんな」

「大叔父様はご高齢で、手助けを必要としていらっしゃるの。本当に継ぐのでなくとも、真面目でひたむきな貴方が、大叔父様を支えてくれるなら、私も安心できるわ。小さい頃、私も兄も大叔父様に本当にお世話になったのよ。聖者のように慈愛に溢れた方なの」

 お母様のご提案は、今の僕にはたまらなく魅力的でした。お母様の恩人であるという大叔父様。僕が、そんな御方のお役に立てるかもしれないのです。

 これしかない、とすら思いました。ある種、衝動的なまでの確信でもって、僕はお母様に頷きを返しました。その瞬間のお母様の安堵の眼差しが、いやに鮮明に、目に焼き付きました。

 お母様の懸命な説得のおかげで、一カ月後には、僕のノルムへの移住が確実なものになりました。

 表向きは療養のための長期滞在ということになっているそうですが、ほとぼりが冷めたところで、正式に大叔父様の養子になるべく手続きを行う手筈のようです。

 大叔父様の方は、公爵家の息子を迎えるということで、話を聞いた当初は少々気後れしていたそうですが、事情を知ってからは快く歓迎してくださいました。

 反面、お父様はあまり僕の移住を快くお思いでいらっしゃいません。

 ここまで恥をさらしたからには、王都に戻ってこようなどとは冗談でも思えませんが、学院中退の手続きをする寸前まで、「一年ほど休学して、せめて卒業まで頑張ってみてはどうか」と仰っていました。

 しかし、実際問題として、僕は精神的負荷に耐えられず、自己管理を疎かにした結果、発作を再発させてしまったのです。

 学院などという長閑な箱庭にあってこの体たらくなのですから、貴族社会の権謀術数に揉まれて、まともでいられるはずがありません。

 潔く、おにいさまに全てを譲れば、何もかもが丸く収まるのです。ラヴィーナさまの言葉を証明してしまうことになるのは不本意ですが、こうなっては認めざるを得ないでしょう。

 おにいさまのご卒業を見届ける前に、僕は王都を発ちました。

 多大なるご迷惑をおかけしておいて、謝罪もせずお別れするのは不義理だったでしょう。

 しかし、おにいさまに僕の顔を見せて、これ以上不愉快な思いをさせるよりは、まだいいだろうと思い、引き裂かれるような心にそっと蓋をしたのでした。

 馬車の中で、ひとり。僕は、薬指から外し、ペンダントチェーンに付け替えた、ユリウスさまの指輪を見つめました。

 僕がユリウスさまを避けるようになってからも、毎夜毎夜、昨晩に至るまで欠かさず、キラキラと光を放って、僕の心を確かに救ってくださった指輪。

 しばらくの間、僕は悩みました。でも、ユリウスさまならきっと受け入れてくださるという抗いがたい確信に、僕はついぞ屈しました。

『リエ⁉ リエ、キミだよね……? ボクの声が聞こえてる……?』

『ユーリさま……お忙しい時期に、突然申し訳ありません。聞こえております』

『ああ、よかった……血を吐いて倒れたところに居合わせて、ずっとキミの容体が気がかりだったんだ。学院にも戻ってこないと知って、もう、声が聞けないんじゃないかと……』

『ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。王都を離れるまで、どうしても、お話する決心がつかず……』

『待って。王都を離れるって言った?』

『はい。おにいさまに後継を譲ることにしたのです。譲るというか、お返しする、の方が正しいでしょうか。イェントの跡取りが、重圧に耐えかねて発作を起こし、死にかけるなんてこと、二度もあってはたまりませんから』

 ユリウスさまは、言葉に詰まってしまったのか、何もおっしゃいませんでした。あれだけ心を砕いてくださったのに、お伝えする顛末がこれとは、心苦しいばかりです。

『譲るに、してもさぁ? なんで、王都を……』

『王都の外に、この身を役立てることができるかもしれない場所を、示していただきました。自分の不甲斐なさを恥じて日々をやり過ごすより、誰かに必要とされている実感を得ながら、毎日を大切に生きたいと思ったんです』

 僕にとって、生きて朝を迎えるのは奇跡なのです。この年まで生きられる見込みがないとすら言われていたのに、僕は今も、こうして息をしています。

 それどころか、無理さえしなければ、発作も起こらず、健やかに過ごせる体になったのです。

 僕をそうしてくださったおにいさまには、終ぞ報いることができず、最後までご迷惑をおかけするだけだったことは、最大の心残りですが。

 だからこそ、これ以上、大事な体を粗末にしないことが、せめてもの果たすべき義務だろうと思っています。

『それ、アウレールにはちゃんと話した……?』

『……いいえ。おにいさまに僕の声をお聞かせしても、ご気分を害することになるだけでしょうから。もう、名前も聞きたくないと仰せでしたし』

『まさか、聞こえてたの、あの時……』

『はい。まあ、それも当然かと思います。ご存知の通り、僕の評判は最悪ですから。きっと、おにいさまも、聞き及んでいらしたでしょう。さぞ、不愉快な義弟だったに違いありません』

『待って、駄目だよ、ちゃんと話した方がいい。キミたちは互いに、とんでもない思い違いをしてるんだ。アウレールはあんなくだらない噂に惑わされるようなヤツじゃ』

『もう、いいんです。どうあれ、僕はおにいさまの邪魔にしかなりません。これ以上公爵家に不利益を齎さないよう、二度と王都には足を踏み入れないつもりです。今更話したところで、何になりましょうか』

『リエ……』

 飄々としたユリウスさまらしくない、縋るような声色です。別れの挨拶くらい、清々しく済ませたかったのですが、ままならないものです。

『お気遣いくださり、本当にありがとうございます。学院に入学して、上手くいかないことばかりでしたが、ユーリさまに良くして頂いた思い出は、一生の宝です。頂いた指輪も、後生大事にいたします。何も恩返し出来ず、申し訳ありません。せめて、王都より遠く離れた地から、ユーリさまのご健勝を願っております』

『なん、だよ……まるで、これっきりみたいじゃん……』

『僕はもう、公爵家の人間ではありませんから』

 どうか、お元気で――それだけを告げて、僕は指輪を外しました。金輪際、僕の薬指で輝くことのないだろう指輪を首元に下げ、背もたれに体を預けて、目を閉じたのでした。
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