【改稿版】光を忘れたあなたに、永遠の後悔を

桜野なつみ

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第8話 終焉の希望(後編) ー記憶に咲く光ー

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リゼとエマが王都を離れてから、五日。
離宮の空は、ずっと低いままだ。

フィアナはあの日、侍女二人に翡翠の護符を託した。
光魔法の座標を保ち、精霊との絆を繋ぐ“封印”。
長年、命と魔力を安定させてきたそれを――この国から脱出できる、たったひとつの突破口として。

この国の結界からは異質である“私の光”を纏う翡翠。
その力が、彼女たちを国の外へ押し出してくれる。きっと。

そして翡翠が国境を越えれば、兄カリスの対のブローチに“真の沈黙”の知らせが走る。
おそらくこの結界の外からは、あの翡翠がなければ転移をしてくることはできない。
――それでいい。今、この国に“強い光”は呼べない。

ここに兄を呼んでしまえば、この結界が爆ぜる。きっと兄ごと。
それをきっかけに、憎しみの連鎖に両国は巻き込まれていくだろう。
それだけは、防ぎたい。せめてセラフィムだけでも――守らなければ。



二人が王宮を追われた直後、離宮に列が現れた。
役人と番兵が無機質に「持ち出し目録」を読み上げながら、目の前で物を剥がしていく。
宝飾はとうに消え、辛うじて残っていた文献までも――。

「食器一式、回収」
「桶、三」
「たらい、二」
「侍女用寝具、すべて」
「カーテン、一式」
「薪、全て」
「文献一式」

皿は無造作に箱へ落とされ、ガシャンと音だけを残して消える。
桶は縄で引きずられ、たらいは肩に担がれ、薄い寝具は巻かれて運ばれる。
巻物と写本は麻紐で固く束ねられ、背表紙がきしむたび、部屋の息がひとつ抜けた。
最後のカーテンが外されると、冬の白い光だけが冷たく床に落ちた。

戸口が閉まるころ、部屋には擦り切れた寝台と冷えた炉――そして、空気の冷たさだけが残っていた。

その日を境に、完全に食は絶たれた。
井戸から引き上げた桶の表面には薄い油膜。鉄と土の匂いが舌に刺さる。
晒し布で何度濾しても、黒い粉が布目に残った。
誰かがまた何かを投げ込んだのか、以前より濁りが酷くなっている。

「……もう、清められないのね」

指先に集めた光が、霧の内側でほどけて消える。
祈りは届かず、術式は内側でねじれる。
王国全体を覆う見えない黒霧が、光を“餌”にしている――身体がそれを悟ってしまう。

やがて、扉の下を紙束が擦って過ぎた。
配給表と通達。
その一枚に目が止まる。

『光魔法の行使を、ルシエル王国において全面的に禁止することをここに決定する』

胸のどこかで張り詰めていた最後の糸が、音もなく切れた。

「これで……この国から、完全に光は消えてしまうのね……」

フィアナは小さく息を吐いた。
掌に残る冷たさの中で、翡翠の感触を思い出す。

「リゼとエマは……ちゃんと着いたかしら。
お兄様に……きちんと、伝わったかしら……」

その声は震えていたが、希望を捨ててはいなかった。

「……私の命があるうちは、こちらに来てはいけないの。
闇があるうちは、来てはいけないのよ……」

小さく微笑み、目を閉じる。
まるで自分に言い聞かせるように――
その身を、闇ではなく“祈りの側”に留めようとするかのように。



胸元に手を当てる。もう、翡翠はない。
だが、たったひとつ、守り抜いたものがある。

フィアナは、寝台の枕を抱え上げ、綿の裂け目に指を差し入れた。
埃と布くずの奥から、銀の冷たさが指先に触れる。

「ああ、よかった……まだ、残っていた……」

そう言って枕から引き出したのは、小さな銀のロケット。
まだリュシアンが王になる前――少年の面影を残した彼が、初めて贈ってくれたものだ。

『お揃いなんだ。君にも、僕にも――大切な思い出を、しまっておけるように』

蓋を開けるのが怖くて、ずっと隠していた。
開けてしまえば、もう戻れなくなる気がして。

でも、もう、失うものは何もない。

パチン――
小さな音。
内側に横たわる二筋の髪。
ひとつは陽のような金、もうひとつは夕暮れめいた栗色。

「……リュミエール。……アレクシス」

家族を奪われて以来、初めて声にした。
その瞬間、胸の奥が焼けるみたいに痛む。

――どうして、呼ぶことが、こんなにも怖かったのだろう。
きっと、あの日々が、あまりにも美しすぎたから。



まだリュシアンが王太子だった頃。
フィアナのお腹の子供が双子だと知れた日、彼は嬉しさに声を震わせながら、どこか不安げに笑った。

「無事に生まれてきてくれるよう、祈りを込めて……生まれる前に、名前をつけよう」

「男女どちらでも使えるものがいいわ」
夜ごと二人で紙に書き出し、消し、書き直す。

ある日、祈りから戻った彼が息を弾ませて言った。

『教会で祈っていたら、突然、頭に浮かんだんだ!』

リュミエール――光。
アレクシス――守る者。

生まれるその瞬間まで、何度も、何度も、二人で名を呼んだ。
一度も間違えず、疑いもせず。
そこに込められていたのはただの祈り――
この世に無事に生まれて来てくれることを願う、親のまっすぐな愛。



そっとロケットを閉じる。
世界の終わりのように、静かな音。

「私は……もう、ここに存在することも、許されないのでしょうか」

ロケットを胸に抱いて、寝台に身を横たえる。
窓辺を撫でる風は弱い。外の黒霧は濃い。
それでも、耳の奥で微かな“鈴”が鳴った気がした。

「もう……ここまでで、良いでしょうか。父上、母上……お兄様……」

言葉は風にほどけ、夜の底へと沈む。

――遠いどこかで、真紅の帯が、確かに揺れた。
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