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第9話 果てにあるのは
しおりを挟むルシエル王国に咲く花――。
誰が言ったのだろう。
……ああ、この“聖女”のことか。
光のように微笑み、正しさを語るその人は、
王の隣に在ることが“自然”であるかのようだった。
何もかもが美しい……気がする。
すべてが、正しい……ような気がする。
リュシアンは、ぼんやりと笑っていた。
臣下たちも、民たちも、静かに、穏やかにその空気に染まっていた。
まるで夢の中にいるような。
いや、それはまどろみという名の、長い幻。
けれど。
──胸元に、冷たい感触があった。
リュシアンの首元には、銀のロケットが揺れていた。
鏡の前で着替えるときも、湯浴みのときも、それだけは外せなかった。
聖女に「変えましょうか?」と微笑まれても、なぜか「これは……いい」と言ってしまった。
それが、何なのかは思い出せなかった。
けれど──ただ、外すと胸が締めつけられるような感覚があった。
「何か……忘れている気が、する……」
けれどその“何か”は、霧の奥に隠れていて、どうしても掴めなかった。
◇
その瞬間だった。
「……っ」
頭の奥で、何かが砕けた。
パキン……
という音が、確かに響いた。
空気が反転する。
霧が晴れていく。
リュシアンの視界が、鮮やかに色を取り戻す。
手が、震える。
胸が、締めつけられる。
──忘れていた。
──忘れていたのだ、すべてを。
彼女の顔も、声も、涙も、
双子の笑い声も、
自分が何を“愛していた”のかも。
「う、あ、あああああああああああああああああああああああ!!」
リュシアンは、絶叫した。
膝をつき、床を叩く。
すべての感情が、押し寄せてきた。
聖女が傍らで微笑みながら、腕をとる。
「どうしたの? 大丈夫ですか、リュシアン様──」
その言葉に、恐ろしいほどの嫌悪感が立ち上る。
「……やめろ!! ……私に、触れるな!!」
自らの腕に置かれた聖女の手を、荒々しくリュシアンが振り払った。
「え、何?どうしたの、リュシアン??」
更に聖女がリュシアンへ手を伸ばしたとその時。
バチン!!
眩い閃光が王の間を裂いた瞬間、
空気が震え、空間がきしむ。
雷光のような魔法陣の中から現れたのは──
隣国セラフィムの王太子・カリス。
「……ようやく、転移できたか……!」
その声は、堪えきれない怒りを孕んでいた。
重厚な甲冑をきしませ、
彼はゆっくりと歩みを進める。
「だが……転移が通ったということは──」
……まさか……そんな……っ」
喉の奥から絞り出されるような声。
カリスの全身を覆う魔力が波立つ。
「……リュシアン、貴様──!!」
その声に、王が振り返る。
その瞳には、涙が滲んでいた。
ようやく目を覚ましたその男は──
今なお、聖女の手を受け入れていた。
「……離れろ! 触るなあああああああッ!!」
聖女の手を振り払おうとするその叫びは、まるで何かを拒絶する幼子のように、
痛切で、愚かで、惨めだった。
「お前は……一体、何をしていたッ!!」
カリスが一喝し、リュシアンの胸ぐらを掴み上げる。
怒りのこもった拳が震え、甲冑が軋む。
「どの面下げて、フィアナの側にいた!!」
「フィ、フィアナ、そうだ、フィアナ……フィアナァァアッ!!」
王の口からほとばしる咆哮。
嗚咽とともに膝をつき、もがくようにカリスの手を振り払うと、
狂ったように走り出す。
「どこへ行く、貴様ッ!!」
返る言葉はなかった。
ただ、森の奥──
忘れてはならなかった、あの場所を目指して
そこに、彼女がいる。
フィアナが。
◇
扉が開かれる。
誰もいない離宮。
風が、音もなく吹き抜ける。
静かすぎる、殺風景な空間の奥に──
リュシアンは、見つけた。
そこに、彼女はいた。
枯れ木のように細く、静かに横たわり、
胸元に抱かれているのは、己の胸にもある、揃いのロケット。
「……ぁ……」
言葉が、出ない。
足が、前に進まない。
「……フィアナ……」
彼女は目を閉じていた。
まるで眠っているかのように、美しく、穏やかで──
けれど、それは確かに、命の終わりだった。
リュシアンの膝が崩れ落ちる。
自分は何をしていた…いや、何をしたんだ…
込み上げる涙に、吐き気に、呆然とする。
その時、背後から重い足音が響いた。
「フィアナーーーーーッ!!!!!!」
──カリスだった。
その声は、雷鳴のように王宮を貫いた。
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