3 / 40
第3話 逃げないと決めた、たった一つの理由
しおりを挟む
第3話 逃げないと決めた、たった一つの理由
馬車は、ゆっくりと王都ベルヴェルを離れていった。
石畳の振動が途切れ、窓の外に見える景色が次第に畑と林へと変わっていく。
その変化を、ルビー・エルヴェールは黙って見つめていた。
(……本当に、戻れないのね)
昨日まで暮らしていた王都は、もう背後にある。
あの王宮も、侯爵家の屋敷も、彼女にとっては“過去”になった。
馬車の中は静かだった。
御者以外、同乗者はいない。
かつてなら、護衛や侍女が同席していたはずだ。
だが今のルビーには、最低限の形式すら与えられていない。
(それでも……不思議ですわね)
涙は出なかった。
胸にあるのは、悲しみよりも――空白だ。
馬車が休憩のために止まった小さな宿場町で、ルビーは外に出た。
人々は、彼女が元侯爵令嬢だとは知らない。
「パンはいかが? 焼きたてだよ」 「ありがとう。ひとつ、いただきますわ」
銅貨を差し出し、素朴なパンを受け取る。
それだけのやり取りが、ひどく新鮮だった。
(私、今まで……こうして“選ぶ”ことすら、許されていなかったのね)
王妃候補としての人生は、常に誰かに決められていた。
何を着るか、何を学ぶか、誰と話すか――
すべては「王太子の婚約者」として最適かどうかで選別されてきた。
ふと、過去の光景が脳裏をよぎる。
――外交使節として隣国を訪れた日のこと。
「ベルヴェル王国の侯爵令嬢様、ですか。ずいぶんとお若い」
そう言いながらも、相手国の高官は半信半疑の目を向けていた。
「失礼ですが、条文の解釈について、一点よろしいでしょうか」
その場で、ルビーは静かに指摘した。
通訳が戸惑うほど、鋭く、正確な指摘を。
「……なるほど。あなたが説明してくれるなら、話が早い」
その瞬間、場の空気が変わった。
誰かの“飾り”ではなく、一人の交渉相手として見られた瞬間だった。
(あのとき……確かに、私は“役に立てた”)
なのに王宮では、
「女性が前に出るべきではない」
「王妃候補は黙って微笑んでいればいい」
そう言われ続けた。
ルビーは、手にしたパンをかじりながら、はっきりと思った。
(逃げるなら、今ですわね)
身分を隠して、遠い土地へ。
静かに暮らすこともできる。
だが――
彼女は、パンを食べ終えると、そっと拳を握った。
(それでは、また同じですわ)
誰かに決められた「安全な場所」で、
自分を押し殺して生きるだけ。
(それだけは……もう、嫌)
馬車に戻ったルビーは、地図を広げた。
赤い線で引かれた国境。
その向こうにある国の名を、指でなぞる。
「……アレグランツ王国」
軍事と経済に力を入れ、実力主義と聞く国。
かつて、彼女の意見に真剣に耳を傾けてくれた人々がいた場所。
(私の価値を、肩書きでなく“中身”で見てくれるなら――)
行く理由は、それだけで十分だった。
御者に告げる。
「進路を変更してください」 「どちらへ?」
ルビーは、迷いなく答えた。
「隣国アレグランツへ。国境を越えます」
御者は驚いた様子だったが、やがて頷いた。
「……承知しました、お嬢さん」
馬車が再び動き出す。
ルビーは、胸の奥で小さく息を吸った。
(逃げない。媚びない。諦めない)
それが、彼女が選んだ生き方。
すべてを失ったからこそ、
ようやく選べるようになった、たった一つの道だった。
――侯爵令嬢ルビー・エルヴェールは、
“自分の人生を、自分で使う”と決めた。
馬車は、ゆっくりと王都ベルヴェルを離れていった。
石畳の振動が途切れ、窓の外に見える景色が次第に畑と林へと変わっていく。
その変化を、ルビー・エルヴェールは黙って見つめていた。
(……本当に、戻れないのね)
昨日まで暮らしていた王都は、もう背後にある。
あの王宮も、侯爵家の屋敷も、彼女にとっては“過去”になった。
馬車の中は静かだった。
御者以外、同乗者はいない。
かつてなら、護衛や侍女が同席していたはずだ。
だが今のルビーには、最低限の形式すら与えられていない。
(それでも……不思議ですわね)
涙は出なかった。
胸にあるのは、悲しみよりも――空白だ。
馬車が休憩のために止まった小さな宿場町で、ルビーは外に出た。
人々は、彼女が元侯爵令嬢だとは知らない。
「パンはいかが? 焼きたてだよ」 「ありがとう。ひとつ、いただきますわ」
銅貨を差し出し、素朴なパンを受け取る。
それだけのやり取りが、ひどく新鮮だった。
(私、今まで……こうして“選ぶ”ことすら、許されていなかったのね)
王妃候補としての人生は、常に誰かに決められていた。
何を着るか、何を学ぶか、誰と話すか――
すべては「王太子の婚約者」として最適かどうかで選別されてきた。
ふと、過去の光景が脳裏をよぎる。
――外交使節として隣国を訪れた日のこと。
「ベルヴェル王国の侯爵令嬢様、ですか。ずいぶんとお若い」
そう言いながらも、相手国の高官は半信半疑の目を向けていた。
「失礼ですが、条文の解釈について、一点よろしいでしょうか」
その場で、ルビーは静かに指摘した。
通訳が戸惑うほど、鋭く、正確な指摘を。
「……なるほど。あなたが説明してくれるなら、話が早い」
その瞬間、場の空気が変わった。
誰かの“飾り”ではなく、一人の交渉相手として見られた瞬間だった。
(あのとき……確かに、私は“役に立てた”)
なのに王宮では、
「女性が前に出るべきではない」
「王妃候補は黙って微笑んでいればいい」
そう言われ続けた。
ルビーは、手にしたパンをかじりながら、はっきりと思った。
(逃げるなら、今ですわね)
身分を隠して、遠い土地へ。
静かに暮らすこともできる。
だが――
彼女は、パンを食べ終えると、そっと拳を握った。
(それでは、また同じですわ)
誰かに決められた「安全な場所」で、
自分を押し殺して生きるだけ。
(それだけは……もう、嫌)
馬車に戻ったルビーは、地図を広げた。
赤い線で引かれた国境。
その向こうにある国の名を、指でなぞる。
「……アレグランツ王国」
軍事と経済に力を入れ、実力主義と聞く国。
かつて、彼女の意見に真剣に耳を傾けてくれた人々がいた場所。
(私の価値を、肩書きでなく“中身”で見てくれるなら――)
行く理由は、それだけで十分だった。
御者に告げる。
「進路を変更してください」 「どちらへ?」
ルビーは、迷いなく答えた。
「隣国アレグランツへ。国境を越えます」
御者は驚いた様子だったが、やがて頷いた。
「……承知しました、お嬢さん」
馬車が再び動き出す。
ルビーは、胸の奥で小さく息を吸った。
(逃げない。媚びない。諦めない)
それが、彼女が選んだ生き方。
すべてを失ったからこそ、
ようやく選べるようになった、たった一つの道だった。
――侯爵令嬢ルビー・エルヴェールは、
“自分の人生を、自分で使う”と決めた。
0
あなたにおすすめの小説
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
どうも、死んだはずの悪役令嬢です。
西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。
皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。
アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。
「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」
こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜
Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。
地味で器量の悪い公爵令嬢は政略結婚を拒んでいたのだが
克全
恋愛
「アルファポリス」「カクヨム」「小説家になろう」に同時投稿しています。
心優しいエヴァンズ公爵家の長女アマーリエは自ら王太子との婚約を辞退した。幼馴染でもある王太子の「ブスの癖に図々しく何時までも婚約者の座にいるんじゃない、絶世の美女である妹に婚約者の座を譲れ」という雄弁な視線に耐えられなかったのだ。それにアマーリエにも自覚があった。自分が社交界で悪口陰口を言われるほどブスであることを。だから王太子との婚約を辞退してからは、壁の花に徹していた。エヴァンズ公爵家てもつながりが欲しい貴族家からの政略結婚の申し込みも断り続けていた。このまま静かに領地に籠って暮らしていこうと思っていた。それなのに、常勝無敗、騎士の中の騎士と称えられる王弟で大将軍でもあるアラステアから結婚を申し込まれたのだ。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
だから聖女はいなくなった
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」
レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。
彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。
だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。
キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。
※7万字程度の中編です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる