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第三十話 届かぬ場所
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第三十話 届かぬ場所
春の気配が、ようやく辺境にも差し込み始めた。
雪解け水が細い流れとなり、凍っていた大地に柔らかな色が戻る。遠くの森には薄い緑がにじみ、冬の間に閉ざされていた空気がゆっくりと動き出す。
王都からの報告は、変わらず整然としていた。
――新王太子、初の予算案を無修正で可決。
――貴族全会、王家への信任再確認。
――商会連盟、追加融資承認。
異論はほとんど出なかったらしい。
満場一致。
その言葉が、再び彼の胸を刺す。
アルベルトは書状を閉じた。
「……完璧だな」
辺境伯は淡々と答える。
「構造は安定しております」
構造。
その言葉に、彼はわずかに目を伏せる。
かつて、自分は構造を飛び越えた。
合意を待たず、順序を省き、正しさを盾に押し通した。
合法ではあった。
だが規範ではなかった。
その差が、いまの結果だ。
昼。
辺境の市が開かれる。
子どもが笑い、商人が値を交わし、兵が静かに見守る。
誰も彼を特別視しない。
元王太子としてではなく、一領主として扱う。
その距離感が、妙に心地よい。
だが同時に、決定的でもある。
彼はもう、中心にはいない。
夜。
暖炉の火が揺れる。
目を閉じる。
回廊。
足音。
誰もいないはずの広間。
白い衣。
振り向く笑顔。
手に赤い染み。
「殿下」
甘い声。
「どこまでも私がお供します」
目が覚める。
炎の音。
血はない。
だが夢は消えない。
最近、夢の中で彼は逃げない。
立ち尽くす。
声を出そうとしても、出ない。
それが一番の恐怖だ。
リュシエラが静かに灯りを落とす。
「まだ王都をご覧になっておりますの?」
「……忘れられないだけだ」
「忘れる必要はございませんわ」
穏やかな声。
「ただ、届かぬ場所にあるだけです」
届かぬ場所。
その表現に、彼は静かに息を吐く。
王都は回っている。
新王太子は支持を集めている。
貴族全会も商会も、もはや彼を前提にしない。
彼が恐れているのは、彼女ではない。
自分が“必要とされなかった”という事実だ。
隣国。
エリシアは新港湾都市の完成式典に立っていた。
歓声は控えめだが確かだ。
「王都との協定は安定しております」
「長期計画に移行可能です」
彼女は頷く。
「安定は最大の価値です」
その言葉は、感情ではない。
合理。
婚約破棄も、廃嫡も、すでに構造の外。
彼女の人生は前に進み続ける。
辺境の深夜。
アルベルトは窓を開ける。
春の夜気は冷たい。
遠くで川の音がする。
王都は遠い。
隣国はさらに遠い。
自分はここにいる。
断罪はなかった。
処刑もなかった。
だが中心から切り離された。
満場一致で。
誰も声を上げなかった。
それが彼の“ざまあ”だった。
リュシエラが背後に立つ。
「寒うございます」
「……ああ」
「わたくしは、どこまでもお供いたします」
その声は優しい。
だが夢の言葉と重なる。
彼は振り向かない。
王都は届かぬ場所になった。
彼はもう、そこへ戻らない。
戻れない。
それでも悪夢だけが、距離を越えて追いかけてくる。
春の風が、静かに窓を揺らした。
春の気配が、ようやく辺境にも差し込み始めた。
雪解け水が細い流れとなり、凍っていた大地に柔らかな色が戻る。遠くの森には薄い緑がにじみ、冬の間に閉ざされていた空気がゆっくりと動き出す。
王都からの報告は、変わらず整然としていた。
――新王太子、初の予算案を無修正で可決。
――貴族全会、王家への信任再確認。
――商会連盟、追加融資承認。
異論はほとんど出なかったらしい。
満場一致。
その言葉が、再び彼の胸を刺す。
アルベルトは書状を閉じた。
「……完璧だな」
辺境伯は淡々と答える。
「構造は安定しております」
構造。
その言葉に、彼はわずかに目を伏せる。
かつて、自分は構造を飛び越えた。
合意を待たず、順序を省き、正しさを盾に押し通した。
合法ではあった。
だが規範ではなかった。
その差が、いまの結果だ。
昼。
辺境の市が開かれる。
子どもが笑い、商人が値を交わし、兵が静かに見守る。
誰も彼を特別視しない。
元王太子としてではなく、一領主として扱う。
その距離感が、妙に心地よい。
だが同時に、決定的でもある。
彼はもう、中心にはいない。
夜。
暖炉の火が揺れる。
目を閉じる。
回廊。
足音。
誰もいないはずの広間。
白い衣。
振り向く笑顔。
手に赤い染み。
「殿下」
甘い声。
「どこまでも私がお供します」
目が覚める。
炎の音。
血はない。
だが夢は消えない。
最近、夢の中で彼は逃げない。
立ち尽くす。
声を出そうとしても、出ない。
それが一番の恐怖だ。
リュシエラが静かに灯りを落とす。
「まだ王都をご覧になっておりますの?」
「……忘れられないだけだ」
「忘れる必要はございませんわ」
穏やかな声。
「ただ、届かぬ場所にあるだけです」
届かぬ場所。
その表現に、彼は静かに息を吐く。
王都は回っている。
新王太子は支持を集めている。
貴族全会も商会も、もはや彼を前提にしない。
彼が恐れているのは、彼女ではない。
自分が“必要とされなかった”という事実だ。
隣国。
エリシアは新港湾都市の完成式典に立っていた。
歓声は控えめだが確かだ。
「王都との協定は安定しております」
「長期計画に移行可能です」
彼女は頷く。
「安定は最大の価値です」
その言葉は、感情ではない。
合理。
婚約破棄も、廃嫡も、すでに構造の外。
彼女の人生は前に進み続ける。
辺境の深夜。
アルベルトは窓を開ける。
春の夜気は冷たい。
遠くで川の音がする。
王都は遠い。
隣国はさらに遠い。
自分はここにいる。
断罪はなかった。
処刑もなかった。
だが中心から切り離された。
満場一致で。
誰も声を上げなかった。
それが彼の“ざまあ”だった。
リュシエラが背後に立つ。
「寒うございます」
「……ああ」
「わたくしは、どこまでもお供いたします」
その声は優しい。
だが夢の言葉と重なる。
彼は振り向かない。
王都は届かぬ場所になった。
彼はもう、そこへ戻らない。
戻れない。
それでも悪夢だけが、距離を越えて追いかけてくる。
春の風が、静かに窓を揺らした。
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