偽王を演じた侯爵令嬢は、名もなき人生を選ぶ」

鷹 綾

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第17話 静かな日常という報酬

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第17話 静かな日常という報酬

朝の光は、相変わらず平等だった。

王宮にも、貧民街にも、
同じ温度で、同じ速さで差し込む。
そして今、ライアーの屋敷の庭にも。

彼女は、白磁のカップを手に、
窓辺の椅子へ腰を下ろしていた。
湯気の立つ紅茶は、
特別高価なものではない。
ただ、香りが素直で、
後味が軽い。

(……よく眠れましたわ)

目覚めた瞬間に、
今日の予定を思い浮かべなくていい。
誰かの機嫌も、
誰かの都合も、
考えなくていい。

それは、
かつて王の顔をしていた日々では、
想像すらできなかった贅沢だった。


---

庭では、庭師が剪定をしている。

「そちら、切りすぎないようにね」

ライアーが声をかけると、
庭師は驚いたように顔を上げ、
すぐに頭を下げた。

「失礼いたしました、侯爵令嬢」

その反応に、
彼女は、ほんの少しだけ眉を下げる。

「……もう少し、
 普通で構いませんのに」

庭師は、困ったように笑った。

「それは……難しいですな」

「どうして?」

「あなたは、
 国を救ったお方ですから」

ライアーは、
それ以上、何も言わなかった。

(……そう見えるのですね)

彼女自身は、
救ったという感覚を持っていない。

ただ、
壊れていた歯車を、
元の位置に戻しただけ。

だが、人は結果を見る。
過程を知る者は、
もう、ほとんどいない。


---

昼前、
街へ出る用事があった。

簡素な外套を羽織り、
護衛も連れずに馬車に乗る。

王都の通りは、
以前よりも、
確かに賑やかだった。

露店の数が増え、
人々の声が、
少しだけ高い。

「税が減ってから、
 仕入れを増やせましてね」

香辛料屋の主人が、
誇らしげに話す。

「前は、
 取られる分を考えると、
 冒険できなかった」

ライアーは、
ただ頷いて聞いた。

(……冒険)

国を動かす時に、
最も嫌われる言葉。

だが、
市井の人々にとっては、
それが生きる力だった。


---

市場を抜けた帰り道、
小さな孤児院の前で、
足を止める。

壁は古く、
扉も歪んでいる。

だが、
中から聞こえてくる声は、
明るい。

「パンが増えました!」
「おかわり、いいの?」

その声に、
思わず、口元が緩む。

(……これで、いい)

王でなくても、
王の名を使わなくても、
国は、こうして動いている。

それが、
何よりの証明だった。


---

夕方、
屋敷に戻ると、
一通の書簡が届いていた。

差出人は、
見覚えのある筆跡。

――リシュリュー公爵。

内容は、短い。

――合議制は、安定している。
――地方からの不満は、
――制度ではなく、旧習に向けられている。
――あなたの名は、
――必要な時にのみ、使われている。

ライアーは、
静かに紙を折った。

(……それで、十分です)

自分の名が、
政治の道具にならないこと。
それが、
彼女にとっての、
最大の安心だった。


---

夜。

暖炉の火が、
静かに揺れている。

ライアーは、
一冊の本を膝に置いたまま、
読まずにいた。

物語の主人公は、
英雄だった。
王を倒し、
国を救い、
讃えられる存在。

(……私には、向きませんわね)

英雄は、
目立たなければならない。
称賛を、
受け入れなければならない。

彼女が選んだのは、
その逆だ。

誰にも気づかれず、
誰にも縛られず、
ただ、生きる。

それが、
彼女の“報酬”だった。


---

窓の外で、
夜風が木々を揺らす。

星が、
ひとつ、瞬いた。

アストライアー。
正義の名を持つ星。

ライアーは、
その光を見て、
小さく息を吐く。

「……正義、ですか」

呟きは、
夜に溶けた。

正義は、
叫ぶものではない。
掲げるものでもない。

ただ、
静かに続く日常の中で、
“不要になる”こと。

それが、
最も完成された正義なのだと、
彼女は知っていた。

そして、
明日もまた、
予定のない朝が来る。

それ以上の結末を、
彼女は、
望まなかった。
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