偽王を演じた侯爵令嬢は、名もなき人生を選ぶ」

鷹 綾

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第35話 旅立ちの理由を持たないまま

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第35話 旅立ちの理由を持たないまま

朝の空気が、
少し乾いていた。

秋の気配が、
はっきりと分かる。

ライアーは、
窓を開け、
深く息を吸った。

(……行けますわね)

そう思った瞬間、
胸の奥で、
何かが静かに決まった。


---

荷造りは、
驚くほど簡単だった。

衣服を数着。
小さな財布。
読みかけの旅の本。

王であった証も、
助言者であった痕跡も、
持っていかない。

「……これだけ」

小さな鞄を持ち上げ、
軽さを確かめる。

(理由がない旅)

それが、
少し可笑しかった。


---

屋敷の門を出る前、
庭を振り返る。

特別な別れは、
しない。

誰かに告げることも、
しない。

「……留守にしますわ」

それだけ言って、
扉を閉めた。


---

街道は、
朝から賑わっていた。

商人の馬車。
農夫の荷車。
旅人の足音。

誰も、
彼女を気に留めない。

それが、
心地よい。


---

昼前、
小さな町に立ち寄る。

宿屋の主人が、
気さくに声をかける。

「一泊かい?」

「ええ。
 ……たぶん」

「はは、
 珍しい答えだ」

ライアーは、
肩をすくめて笑った。

(……決めていない、
 という自由)


---

部屋に荷を置き、
町を歩く。

石畳。
古い教会。
川沿いの道。

どれも、
初めて見るはずなのに、
なぜか懐かしい。

(……私は、
 こういう場所を
 知らなかった)


---

夕暮れ。

川辺に腰を下ろし、
水の流れを見る。

王宮の噴水とは、
違う音。

飾り気も、
意味もない。

ただ、
流れる。

「……理由なんて、
 いらないのですね」

誰に言うでもなく、
呟く。


---

夜。

宿の窓から、
町の灯りを見る。

小さな光が、
点々と続く。

誰も、
世界を救っていない夜。

誰も、
裁かれていない夜。

それでも、
人は眠り、
朝を迎える。


---

ベッドに横になり、
天井を見る。

(……私は、
 もう、
 何かを成さなくていい)

それは、
諦めではない。

許しだ。

自分自身への。


---

目を閉じる。

旅立ちに、
理由はいらない。

帰る場所があるから、
行ける。

ライアー・ユースティティアは、
名もなき旅人として、
静かに歩き始めた。

物語は、
英雄譚をやめ、
人生になった。

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