偽王を演じた侯爵令嬢は、名もなき人生を選ぶ」

鷹 綾

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第38話 知らない名で呼ばれる日

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第38話 知らない名で呼ばれる日

朝の霧は、
山あいの村では珍しくなかった。

宿を出たライアーは、
街道を外れ、
細い道へ足を向けていた。
地図に載らない道。
旅の本にも、
詳しくは書かれていない場所。

(……だから、
 行ってみたくなったのですね)

理由は、
それだけだった。


---

道の先に、
小さな村が現れた。

石と木で作られた家々。
畑は狭く、
人の数も多くない。

だが、
静かで、
落ち着いている。

村の入口で、
年配の男が薪を割っていた。

「おや、
 旅の方か」

「ええ。
 少し、
 休ませていただければ」

「構わんよ。
 宿はないが、
 空いてる家はある」

迷いのない答え。

条件も、
詮索もない。


---

案内されたのは、
使われていない古い家だった。

掃除は行き届き、
最低限の家具もある。

「昔、
 娘夫婦が使ってたんだがね」

男は、
少しだけ寂しそうに笑った。

「今は、
 町に出てる」

「……では、
 ありがたく」

「金は、
 いらん」

「え?」

「旅の人から、
 取るもんじゃない」

ライアーは、
一瞬、
言葉に詰まった。

(……王都では、
 考えられない)


---

昼。

村の広場で、
簡単な食事が振る舞われた。

パンと、
野菜の煮込み。

豪華ではない。
だが、
誰かに食べさせるための食事。

「名前は?」

ふいに、
若い女性が尋ねてきた。

その問いに、
ライアーは、
一瞬だけ考える。

本名を名乗る必要は、
ない。

だが、
嘘をつく必要も、
ない。

「……ライ、と呼んでください」

即興の名。

それでも、
不思議と違和感はなかった。

「ライさんね」

女性は、
にこりと笑う。

「私は、
 ミア」

それだけで、
会話は成立した。


---

午後。

畑仕事を手伝うことになった。

鍬を持ち、
土を起こす。

ぎこちない動きに、
笑われる。

「慣れてないね」

「ええ。
 でも……嫌いではありません」

それは、
本当だった。

土の感触。
汗の重み。

誰かの役に立っている、
という実感。

(……政治とは、
 違う形の責任)

ここには、
決裁も、
命令もない。

あるのは、
隣にいる人だけ。


---

夕方。

子どもたちが、
集まってくる。

「ライさん、
 旅人なんでしょ?」

「ええ」

「どこから?」

「……遠くから」

「どこへ行くの?」

ライアーは、
少し考えてから、
答えた。

「行けるところまで」

子どもたちは、
目を輝かせる。

「すごい!」
「自由だ!」

その言葉に、
胸の奥が、
少しだけ温かくなる。

(……自由)

かつて、
命を懸けて手に入れたもの。

今は、
こうして、
当たり前のように呼ばれている。


---

夜。

村の端で、
焚き火が焚かれた。

誰かが歌い、
誰かが笑う。

ライアーは、
火を眺めながら、
静かに思う。

(……ここでは、
 私は何者でもない)

偽王でも、
助言者でもない。

「ライさん」

誰かが、
そう呼ぶ。

その声に、
振り向く。

「どうしました?」

「明日も、
 ここにいる?」

「……分かりません」

正直な答え。

だが、
それでいい。


---

夜更け。

借りた家で、
一人になる。

窓の外には、
村の灯り。

小さく、
穏やかな光。

(……名を失っても、
 人は、
 人として受け入れられる)

それを、
今日、
初めて実感した。


---

布団に入り、
目を閉じる。

今日、
誰かに指示は出していない。
誰かを裁いてもいない。

だが、
確かに、
生きていた。

「……ライ」

自分の名を、
小さく呼ぶ。

それは、
過去を捨てた名ではない。

未来を縛らない名だ。

ライアー・ユースティティアは、
その夜、
初めて――
他人から与えられた名前で、
 穏やかに眠った。

それは、
王を演じた日々よりも、
ずっと確かな現実だった。
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