偽王を演じた侯爵令嬢は、名もなき人生を選ぶ」

鷹 綾

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第39話 ここにいてもいいと言われる場所

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第39話 ここにいてもいいと言われる場所

朝、
鶏の声で目を覚ました。

王都では決して聞かなかった音だ。
鐘でも、号令でもない。
ただ、生き物が朝を告げているだけ。

ライアー――今は「ライ」と呼ばれている――は、
ゆっくりと体を起こし、
借りている家の窓を開けた。

澄んだ空気。
畑に立つ人影。
湯気の立つ鍋の匂い。

(……もう、
 旅の途中という感じではありませんわね)

そう思った瞬間、
不思議と焦りはなかった。


---

外に出ると、
昨日の老女が桶を抱えていた。

「おはようさん、ライ」

「おはようございます」

「水汲み、手伝ってくれるかい?」

「ええ、喜んで」

そのやり取りに、
理由はない。
上下も、義務もない。

ただ、
声をかけられ、
応じただけ。


---

井戸までの道を歩きながら、
老女がぽつりと言った。

「旅人ってのは、
 すぐにどこかへ行っちまうもんだと思ってたよ」

「……そうですね」

「でも、
 あんたは違うな」

「どう違います?」

老女は、
少し考えてから答えた。

「足が、
 落ち着いてる」

ライアーは、
その言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。

だが、
胸の奥で、
何かが静かにほどけた。


---

昼前。

村の集会所で、
小さな揉め事が起きていた。

畑の境界をめぐる、
よくある話。

声は荒れているが、
怒鳴り合いではない。
困っている、
という方が近い。

「……どうしたの?」

ライアーが声をかけると、
皆が一瞬、こちらを見る。

「いや、
 たいしたことじゃない」

そう言われたが、
困っているのは明らかだった。


---

彼女は、
前に出なかった。

裁きもしない。
決めもしない。

ただ、
地面に落ちていた枝で、
土の上に線を引いた。

「……ここから、
 水はどちらに流れます?」

「こっちだ」

「雨が多い年は?」

「あっちまで広がる」

「では、
 今年は?」

「……少ない」

ライアーは、
線を少し消し、
引き直す。

「今年だけ、
 この境界にしては?」

誰かが、
息をのむ。


---

しばらく沈黙が続き、
やがて、一人が言った。

「……それなら、
 納得できる」

別の者も、
頷く。

誰も、
彼女に感謝を強要しない。
誰も、
判断を押し付けない。

(……ああ)

(私は、
 決めなかった)

(考え方を、
 示しただけ)


---

夕方。

ミアが、
パンを持ってきた。

「さっきのこと、
 ありがとう」

「いえ」

「……ねえ、
 ライさん」

「なんです?」

「しばらく、
 ここにいない?」

その言葉は、
軽かった。
だが、
だからこそ重い。

「理由は?」

「必要?」

ライアーは、
答えに詰まった。

王都では、
理由がなければ、
存在できなかった。

だが、
ここでは――


---

夜。

焚き火のそばで、
一人、考える。

(……ここにいる理由)

旅を続ける理由は、
もうない。

戻る理由も、
ない。

だが、
「ここにいてはいけない理由」も、
存在しなかった。


---

星空を見上げ、
小さく息を吐く。

「……明日も、
 ここにいますわ」

誰に聞かせるでもなく、
そう呟く。

それは、
決断ではない。
宣言でもない。

ただ、
自然に出た言葉。


---

家に戻り、
灯りを落とす。

今日、
彼女は王ではなかった。
偽王でも、
助言者でもなかった。

ただ、
「ここにいてもいい」と
言われただけの存在。

それが、
こんなにも、
心を満たすとは思わなかった。

ライアー・ユースティティアは、
その夜、
初めて――
居場所というものを、
 与えられる側として、
 静かに眠りについた。
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