『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

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第五話 実家という安全地帯

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第五話 実家という安全地帯

 王宮を離れる準備は、驚くほどあっさりと終わった。

 もともと、私物は多くない。
 王太子妃候補として過ごす日々に、個人的な趣味や装飾品を持ち込む余地などなかったからだ。
 必要最低限の衣類と書籍、それから長年使い慣れた紅茶の茶葉――それだけで十分だった。

「……本当に、これだけでよろしいのですか?」

 侍女が不安そうに問いかけてくる。

「ええ。王宮に置いていくものは、すべて“職務用”ですもの。
 もう、わたくしの持ち物ではありませんわ」

 そう答えると、侍女は一瞬、言葉を詰まらせ、それから深く頭を下げた。
 同情でも、哀れみでもない。
 長年仕えてきた主が、ようやく重荷を下ろしたことへの、理解に近い感情だった。

 馬車が王宮を出るとき、振り返る者はいなかった。
 引き留める声も、別れを惜しむ声もない。

 ――それでいい。

 期待も、役割も、すべてあの場所に置いてきたのだから。

 ヴァイセル公爵家の屋敷は、王宮から少し離れた場所にある。
 豪奢ではあるが、過度に華美ではない。
 実務と生活の両方を重んじる、いかにもこの家らしい佇まいだ。

 門をくぐった瞬間、胸の奥に、ふっと力が抜けるのを感じた。

「……帰ってきましたわ」

 そう呟くと、待ち構えていた父――ヴァイセル公爵が、一歩前に出た。

「ご苦労だったな、リュシエンヌ」

 それだけだった。
 慰めの言葉も、怒りの言葉もない。

 だが、その一言で十分だった。

「婚約破棄の件、すでに聞いている」

「ええ」

「で?」

 短い問い。
 だが、その裏にあるのは、娘の意思を確かめるための沈黙だ。

 リュシエンヌは、少しだけ考えてから答えた。

「……しばらく、何もしたくありません」

 公爵は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
 それから、小さく息を吐く。

「そうか」

 否定はなかった。

「王宮での働きぶりは、嫌というほど見てきた。
 お前がどれほど背負わされていたかもな」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
 評価されたいわけではない。
 理解されていたことが、ただ嬉しかった。

「しばらく、休め」

「……よろしいのですか?」

「当たり前だ。
 ここはお前の家だ。役に立つかどうかで居場所が決まる場所ではない」

 その一言で、張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。

 リュシエンヌは、深く一礼する。

「ありがとうございます、お父様」

 屋敷の中は、王宮とはまるで違っていた。
 空気が柔らかく、時間の流れが緩やかだ。
 誰も、彼女に予定を確認しない。
 誰も、判断を求めてこない。

 部屋に案内され、荷物を置き、椅子に腰を下ろす。

「……何も、しなくていい」

 その事実が、じわじわと実感として染み込んでくる。

 これまでは、空いた時間があれば、次にやるべきことを探していた。
 考える前に動く癖が、体に染みついていた。

 だが今は。

(何もしなくていい、とは……こういうことなのですね)

 窓から見える庭は、手入れが行き届いているが、作り込みすぎていない。
 人の生活に寄り添う、余白のある景色。

 王宮では、余白は“無駄”だった。
 だがここでは、それが“安心”になる。

 その日の夕食は、家族だけだった。
 形式ばった会話も、政治の話題もない。

「……おかわり、いかがですか?」

 侍女の問いに、自然と頷く自分がいる。

「はい。いただきますわ」

 こんなふうに、誰かに勧められて食事を取ることすら、久しぶりだった。

 食後、部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。

 まだ夜には早い。
 だが、何かをしようという気にもならない。

「……安全地帯、ですわね」

 ここでは、失敗しても責められない。
 成果を出さなくても、価値が下がらない。

 ヴァイセル公爵家は、リュシエンヌにとって、ようやく辿り着いた“安全地帯”だった。

 王宮がどうなろうと、王太子がどれほど困ろうと、関係ない。
 今はただ――

「しばらく、眠りましょう」

 そう呟いて、横になる。

 目を閉じた瞬間、意識はすぐに沈んでいった。
 夢も見ない、深い眠り。

 それは、彼女が何年も得られなかった、本当の休息だった。

 そして同時に。
 この“静かな選択”こそが、後に王宮を揺るがすことになるとは――
 まだ、誰も知らない。
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