『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

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第六話 もう、働きませんと決めました

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第六話 もう、働きませんと決めました

 翌朝、リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、本当に昼近くまで眠っていた。

 目を覚ましたのは、カーテン越しに射し込む光が、いつもより高い位置にあると気づいたからだ。
 時計を見る。――まだ午前だが、王宮にいた頃なら、とっくに一日の半分は終えている時間だった。

「……遅い朝、ですわね」

 そう呟いても、胸に焦りは湧かない。
 むしろ、深く息を吸い込むと、体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。

 身支度を整えるために呼び鈴を鳴らすと、侍女が入ってくる。
 彼女は、どこか様子をうかがうように視線を伏せていた。

「本日のご予定は……」

 言いかけて、言葉を止める。

 ――そうだ。予定など、ない。

「ありませんわ」

 リュシエンヌは、あっさりと言った。

「……え?」

「今日は、何もいたしません」

 侍女は、目を瞬かせた。
 長年、主の予定が“空白”になることなど、ほとんどなかったのだろう。

「では……お茶のご用意だけ、いたしましょうか」

「ええ。お気に入りの茶葉で。
 あとは……気分次第ですわ」

 それだけで、会話は終わった。
 命令も、指示も、細かい段取りもない。

 リュシエンヌは椅子に腰を下ろし、庭を眺める。
 風に揺れる木々。
 忙しなくない、ただの朝。

(こんな時間が、あったのですね)

 しばらくして、紅茶が運ばれてくる。
 香りを確かめ、一口含む。

「……美味しい」

 それだけで、少し幸せだと思えた。

 そのとき、部屋の外がわずかに騒がしくなった。
 足音。
 低い声。

 やがて、父であるヴァイセル公爵が姿を現す。

「起きたか」

「ええ。おはようございます、お父様」

 公爵は、彼女の顔色を一瞥し、頷いた。

「……よく眠れたようだな」

「はい。久しぶりに」

 短いやり取り。
 それで十分だった。

 だが、公爵はそのまま部屋を出ようとはせず、椅子に腰を下ろした。

「王宮から、連絡があった」

 来るだろうとは思っていた。
 リュシエンヌは、特に驚きもせず、紅茶を置く。

「やはり、困っていらっしゃるのですね」

「正確には――慌てている」

 公爵は淡々と告げた。

「業務が滞っている。
 誰がどの判断を下していたのか、把握できていないらしい」

 それを聞いても、胸は動かない。
 ああ、そうでしょうね、という感想だけが浮かぶ。

「引き継ぎを求めてきたが、断ったそうだな」

「ええ。部外者ですもの」

 言い切ると、公爵は小さく笑った。

「正しい」

 その一言に、リュシエンヌは少しだけ目を見開いた。

「お前は、もう王宮の人間ではない。
 善意で関わるほど、向こうは依存する」

 まるで、昔から分かっていたことのような口調だった。

「だから、ひとつ確認しておきたい」

 公爵は、真っ直ぐに娘を見る。

「これから、お前はどうするつもりだ?」

 問いは重いはずなのに、リュシエンヌの心は不思議と軽かった。

 少し考えてから、彼女は答える。

「……何もしません」

 公爵は、眉一つ動かさない。

「本当に、それでいいのか」

「はい」

 迷いはなかった。

「これまで、十分すぎるほど働きました。
 誰かの期待に応え、役に立ち、失敗しないように生きてきました」

 一息ついて、続ける。

「でも……それは、わたくしの人生ではありませんでしたわ」

 公爵は、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと頷いた。

「ならば、それでいい」

 それ以上、何も言わない。
 説教も、助言もない。

 それが、何よりの肯定だった。

 父が部屋を出たあと、リュシエンヌは椅子に深くもたれた。

(……もう、働きません)

 声に出さず、心の中で宣言する。

 王宮では、それは怠慢と呼ばれただろう。
 無責任だと、非難されたかもしれない。

 だが今は違う。

 ここでは、“選択”だ。

 午後は、読書をした。
 実用書でも、政治文書でもない。
 ただの物語。

 途中で眠くなり、ページに栞を挟んで目を閉じる。
 誰にも咎められない、昼寝。

 夕方、庭を少し歩いた。
 目的もなく、ただ足の向くままに。

「……悪くありませんわね」

 誰に言うでもなく、そう呟く。

 何もしない一日。
 それは、驚くほど満ち足りていた。

 そして同時に、リュシエンヌは気づいていなかった。
 王宮ではすでに、
 「彼女がいない」という事実が、確実に混乱を広げ始めていることを。

 だが、それも――もう、彼女の仕事ではない。

 リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
 静かに、しかし確固たる意志をもって、そう決めていた。

 もう、働きません。
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