『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

文字の大きさ
7 / 40

第七話 昼まで眠るという贅沢

しおりを挟む
第七話 昼まで眠るという贅沢

 リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルが目を覚ましたのは、再び――昼だった。

 正確には、正午を少し過ぎた頃。
 カーテンの隙間から差し込む光が、朝のそれとは明らかに違う角度で床を照らしているのを見て、ようやく時間を察した。

「……本当に、お昼ですわね」

 呆然と呟きながらも、不思議と罪悪感は湧かなかった。
 王宮で暮らしていた頃なら、こんな時間まで眠っていたと知った瞬間、心臓が跳ね上がり、頭の中で一日の予定が崩れ落ちていたはずだ。

 だが今は違う。

 崩れる予定が、そもそも存在しない。

 ゆっくりと体を起こし、背伸びをする。
 筋肉が軋む感覚もない。
 疲労が、ようやく抜け始めている証拠だった。

(人は……こんなにも眠れるものなのですね)

 侍女がそっと入室し、控えめに声をかける。

「お目覚めでございますか。
 お昼のお食事、いかがなさいますか?」

 その問いかけに、リュシエンヌは少しだけ考えた。

 ――王宮なら、即答していただろう。
 決められた時間、決められた内容、決められた形式。

 だが、ここでは。

「……軽めで」

 たったそれだけの返答が、なぜか新鮮だった。

「かしこまりました。
 では、庭が見える小広間で」

「ええ。そうしてください」

 身支度も、簡素でいい。
 装飾の多いドレスではなく、動きやすい服。
 それだけで、呼吸が楽になる。

 小広間に通されると、柔らかな日差しと、静かな庭の景色が迎えてくれた。
 食事は温かく、量も程よい。
 誰かに見せるためではなく、自分のための食事。

(……食べることに、集中できますわ)

 噛む。
 味わう。
 それだけの行為が、これほど穏やかな時間になるとは思わなかった。

 食後、紅茶を飲みながら、何をするでもなく庭を眺める。

 鳥が枝に止まり、風が葉を揺らす。
 世界は、特に何も変わっていない。

 変わったのは、自分の立ち位置だけだ。

(今ごろ、王宮では大騒ぎかしら)

 ふと、そんな考えが浮かぶ。
 だが、それは遠い場所の出来事として処理される。

 かつてなら、
「誰が代わりを務めているのか」
「判断は適切か」
「放置すれば問題になる」
と、勝手に頭が回り始めていた。

 しかし今は――

(知りませんわ)

 その一言で、思考が終わる。

 午後は、何をしようか。
 そう考えて、リュシエンヌは少し困った。

 やるべきことがないという状況に、まだ慣れていない。

 読書。
 散歩。
 昼寝。

 どれも“してもいい”が、“しなければならない”わけではない。

「……では、全部少しずつ」

 自分で決めて、自分で実行する。
 それだけで、ほんの少し誇らしい気持ちになる。

 本棚から一冊の本を取り、数ページ読んでから、気が向いたところで閉じる。
 庭に出て、五分ほど歩き、戻る。
 椅子に座り、また紅茶を飲む。

 効率も、生産性も、意味もない。
 だが、不思議と心は満たされていく。

 夕方近く、侍女が控えめに報告に来た。

「……王宮から、再び使者が」

 その言葉に、リュシエンヌは眉を上げた。

「今日は、お断りしていますよね?」

「はい。そのように伝えておりますが……」

 少しだけ、考える。

 会えば、きっと何かを期待される。
 助言。
 整理。
 後始末。

 ――それは、もうしないと決めた。

「では、そのままお帰りいただいて」

 きっぱりと言うと、侍女は安堵したように頷いた。

 日が沈み、空が茜色に染まる頃。
 リュシエンヌは、窓辺でその景色を眺めていた。

「昼まで眠る、というのは……」

 小さく笑う。

「思っていた以上に、贅沢ですわね」

 何も生み出さない一日。
 誰の役にも立たない時間。

 それでも、確かに“生きている”と感じられる。

 王宮では、価値は成果で測られた。
 だがここでは、存在そのものが許されている。

 ――それだけで、十分だ。

 この日もまた、王宮では混乱が続いていた。
 だがその中心に、リュシエンヌの姿はない。

 彼女はただ、
 昼まで眠り、
 気ままに過ごし、
 静かに一日を終える。

 それが、
 彼女が選んだ新しい生き方だった。

 そしてその“何もしない日常”こそが、
 これから多くの人間の価値観を、
 少しずつ、確実に壊していくことになる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜

水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。 魔王乱立の時代。 王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。 だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。 にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。 抗議はしない。 訂正もしない。 ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。 ――それが、誰にとっての不合格なのか。 まだ、誰も気づいていない。 欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。

婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。

ムラサメ
恋愛
​「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」 ​婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。 泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。 ​「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」 ​汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。 「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。 ​一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。 自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。 ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。 ​「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」 ​圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!

【完結】私を捨てた国のその後を見守ってみた。

satomi
恋愛
侯爵令嬢のレナは公然の場でというか、卒業パーティーで王太子殿下イズライールに婚約破棄をされた挙句、王太子殿下は男爵令嬢のラーラと婚約を宣言。 殿下は陛下や王妃様がいないときを狙ったんでしょうね。 レナの父はアルロジラ王国の宰相です。実家にはレナの兄が4名いますがみんなそろいもそろって優秀。 長男は領地経営、次男は貿易商、3男は情報屋、4男は…オカマバー経営。 レナは殿下に愛想をつかして、アルロジラ王国の行く末を見守ろうと決意するのです。 次男監修により、国交の断絶しているエミューダ帝国にて。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

【完結】お父様の再婚相手は美人様

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 シャルルの父親が子連れと再婚した!  二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。  でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。

どうも、死んだはずの悪役令嬢です。

西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。 皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。 アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。 「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」 こっそり呟いた瞬間、 《願いを聞き届けてあげるよ!》 何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。 「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」 義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。 今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで… ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。 はたしてアシュレイは元に戻れるのか? 剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。 ざまあが書きたかった。それだけです。

処理中です...