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第七話 昼まで眠るという贅沢
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第七話 昼まで眠るという贅沢
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルが目を覚ましたのは、再び――昼だった。
正確には、正午を少し過ぎた頃。
カーテンの隙間から差し込む光が、朝のそれとは明らかに違う角度で床を照らしているのを見て、ようやく時間を察した。
「……本当に、お昼ですわね」
呆然と呟きながらも、不思議と罪悪感は湧かなかった。
王宮で暮らしていた頃なら、こんな時間まで眠っていたと知った瞬間、心臓が跳ね上がり、頭の中で一日の予定が崩れ落ちていたはずだ。
だが今は違う。
崩れる予定が、そもそも存在しない。
ゆっくりと体を起こし、背伸びをする。
筋肉が軋む感覚もない。
疲労が、ようやく抜け始めている証拠だった。
(人は……こんなにも眠れるものなのですね)
侍女がそっと入室し、控えめに声をかける。
「お目覚めでございますか。
お昼のお食事、いかがなさいますか?」
その問いかけに、リュシエンヌは少しだけ考えた。
――王宮なら、即答していただろう。
決められた時間、決められた内容、決められた形式。
だが、ここでは。
「……軽めで」
たったそれだけの返答が、なぜか新鮮だった。
「かしこまりました。
では、庭が見える小広間で」
「ええ。そうしてください」
身支度も、簡素でいい。
装飾の多いドレスではなく、動きやすい服。
それだけで、呼吸が楽になる。
小広間に通されると、柔らかな日差しと、静かな庭の景色が迎えてくれた。
食事は温かく、量も程よい。
誰かに見せるためではなく、自分のための食事。
(……食べることに、集中できますわ)
噛む。
味わう。
それだけの行為が、これほど穏やかな時間になるとは思わなかった。
食後、紅茶を飲みながら、何をするでもなく庭を眺める。
鳥が枝に止まり、風が葉を揺らす。
世界は、特に何も変わっていない。
変わったのは、自分の立ち位置だけだ。
(今ごろ、王宮では大騒ぎかしら)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
だが、それは遠い場所の出来事として処理される。
かつてなら、
「誰が代わりを務めているのか」
「判断は適切か」
「放置すれば問題になる」
と、勝手に頭が回り始めていた。
しかし今は――
(知りませんわ)
その一言で、思考が終わる。
午後は、何をしようか。
そう考えて、リュシエンヌは少し困った。
やるべきことがないという状況に、まだ慣れていない。
読書。
散歩。
昼寝。
どれも“してもいい”が、“しなければならない”わけではない。
「……では、全部少しずつ」
自分で決めて、自分で実行する。
それだけで、ほんの少し誇らしい気持ちになる。
本棚から一冊の本を取り、数ページ読んでから、気が向いたところで閉じる。
庭に出て、五分ほど歩き、戻る。
椅子に座り、また紅茶を飲む。
効率も、生産性も、意味もない。
だが、不思議と心は満たされていく。
夕方近く、侍女が控えめに報告に来た。
「……王宮から、再び使者が」
その言葉に、リュシエンヌは眉を上げた。
「今日は、お断りしていますよね?」
「はい。そのように伝えておりますが……」
少しだけ、考える。
会えば、きっと何かを期待される。
助言。
整理。
後始末。
――それは、もうしないと決めた。
「では、そのままお帰りいただいて」
きっぱりと言うと、侍女は安堵したように頷いた。
日が沈み、空が茜色に染まる頃。
リュシエンヌは、窓辺でその景色を眺めていた。
「昼まで眠る、というのは……」
小さく笑う。
「思っていた以上に、贅沢ですわね」
何も生み出さない一日。
誰の役にも立たない時間。
それでも、確かに“生きている”と感じられる。
王宮では、価値は成果で測られた。
だがここでは、存在そのものが許されている。
――それだけで、十分だ。
この日もまた、王宮では混乱が続いていた。
だがその中心に、リュシエンヌの姿はない。
彼女はただ、
昼まで眠り、
気ままに過ごし、
静かに一日を終える。
それが、
彼女が選んだ新しい生き方だった。
そしてその“何もしない日常”こそが、
これから多くの人間の価値観を、
少しずつ、確実に壊していくことになる。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルが目を覚ましたのは、再び――昼だった。
正確には、正午を少し過ぎた頃。
カーテンの隙間から差し込む光が、朝のそれとは明らかに違う角度で床を照らしているのを見て、ようやく時間を察した。
「……本当に、お昼ですわね」
呆然と呟きながらも、不思議と罪悪感は湧かなかった。
王宮で暮らしていた頃なら、こんな時間まで眠っていたと知った瞬間、心臓が跳ね上がり、頭の中で一日の予定が崩れ落ちていたはずだ。
だが今は違う。
崩れる予定が、そもそも存在しない。
ゆっくりと体を起こし、背伸びをする。
筋肉が軋む感覚もない。
疲労が、ようやく抜け始めている証拠だった。
(人は……こんなにも眠れるものなのですね)
侍女がそっと入室し、控えめに声をかける。
「お目覚めでございますか。
お昼のお食事、いかがなさいますか?」
その問いかけに、リュシエンヌは少しだけ考えた。
――王宮なら、即答していただろう。
決められた時間、決められた内容、決められた形式。
だが、ここでは。
「……軽めで」
たったそれだけの返答が、なぜか新鮮だった。
「かしこまりました。
では、庭が見える小広間で」
「ええ。そうしてください」
身支度も、簡素でいい。
装飾の多いドレスではなく、動きやすい服。
それだけで、呼吸が楽になる。
小広間に通されると、柔らかな日差しと、静かな庭の景色が迎えてくれた。
食事は温かく、量も程よい。
誰かに見せるためではなく、自分のための食事。
(……食べることに、集中できますわ)
噛む。
味わう。
それだけの行為が、これほど穏やかな時間になるとは思わなかった。
食後、紅茶を飲みながら、何をするでもなく庭を眺める。
鳥が枝に止まり、風が葉を揺らす。
世界は、特に何も変わっていない。
変わったのは、自分の立ち位置だけだ。
(今ごろ、王宮では大騒ぎかしら)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
だが、それは遠い場所の出来事として処理される。
かつてなら、
「誰が代わりを務めているのか」
「判断は適切か」
「放置すれば問題になる」
と、勝手に頭が回り始めていた。
しかし今は――
(知りませんわ)
その一言で、思考が終わる。
午後は、何をしようか。
そう考えて、リュシエンヌは少し困った。
やるべきことがないという状況に、まだ慣れていない。
読書。
散歩。
昼寝。
どれも“してもいい”が、“しなければならない”わけではない。
「……では、全部少しずつ」
自分で決めて、自分で実行する。
それだけで、ほんの少し誇らしい気持ちになる。
本棚から一冊の本を取り、数ページ読んでから、気が向いたところで閉じる。
庭に出て、五分ほど歩き、戻る。
椅子に座り、また紅茶を飲む。
効率も、生産性も、意味もない。
だが、不思議と心は満たされていく。
夕方近く、侍女が控えめに報告に来た。
「……王宮から、再び使者が」
その言葉に、リュシエンヌは眉を上げた。
「今日は、お断りしていますよね?」
「はい。そのように伝えておりますが……」
少しだけ、考える。
会えば、きっと何かを期待される。
助言。
整理。
後始末。
――それは、もうしないと決めた。
「では、そのままお帰りいただいて」
きっぱりと言うと、侍女は安堵したように頷いた。
日が沈み、空が茜色に染まる頃。
リュシエンヌは、窓辺でその景色を眺めていた。
「昼まで眠る、というのは……」
小さく笑う。
「思っていた以上に、贅沢ですわね」
何も生み出さない一日。
誰の役にも立たない時間。
それでも、確かに“生きている”と感じられる。
王宮では、価値は成果で測られた。
だがここでは、存在そのものが許されている。
――それだけで、十分だ。
この日もまた、王宮では混乱が続いていた。
だがその中心に、リュシエンヌの姿はない。
彼女はただ、
昼まで眠り、
気ままに過ごし、
静かに一日を終える。
それが、
彼女が選んだ新しい生き方だった。
そしてその“何もしない日常”こそが、
これから多くの人間の価値観を、
少しずつ、確実に壊していくことになる。
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