6 / 40
第六話 もう、働きませんと決めました
しおりを挟む
第六話 もう、働きませんと決めました
翌朝、リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、本当に昼近くまで眠っていた。
目を覚ましたのは、カーテン越しに射し込む光が、いつもより高い位置にあると気づいたからだ。
時計を見る。――まだ午前だが、王宮にいた頃なら、とっくに一日の半分は終えている時間だった。
「……遅い朝、ですわね」
そう呟いても、胸に焦りは湧かない。
むしろ、深く息を吸い込むと、体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
身支度を整えるために呼び鈴を鳴らすと、侍女が入ってくる。
彼女は、どこか様子をうかがうように視線を伏せていた。
「本日のご予定は……」
言いかけて、言葉を止める。
――そうだ。予定など、ない。
「ありませんわ」
リュシエンヌは、あっさりと言った。
「……え?」
「今日は、何もいたしません」
侍女は、目を瞬かせた。
長年、主の予定が“空白”になることなど、ほとんどなかったのだろう。
「では……お茶のご用意だけ、いたしましょうか」
「ええ。お気に入りの茶葉で。
あとは……気分次第ですわ」
それだけで、会話は終わった。
命令も、指示も、細かい段取りもない。
リュシエンヌは椅子に腰を下ろし、庭を眺める。
風に揺れる木々。
忙しなくない、ただの朝。
(こんな時間が、あったのですね)
しばらくして、紅茶が運ばれてくる。
香りを確かめ、一口含む。
「……美味しい」
それだけで、少し幸せだと思えた。
そのとき、部屋の外がわずかに騒がしくなった。
足音。
低い声。
やがて、父であるヴァイセル公爵が姿を現す。
「起きたか」
「ええ。おはようございます、お父様」
公爵は、彼女の顔色を一瞥し、頷いた。
「……よく眠れたようだな」
「はい。久しぶりに」
短いやり取り。
それで十分だった。
だが、公爵はそのまま部屋を出ようとはせず、椅子に腰を下ろした。
「王宮から、連絡があった」
来るだろうとは思っていた。
リュシエンヌは、特に驚きもせず、紅茶を置く。
「やはり、困っていらっしゃるのですね」
「正確には――慌てている」
公爵は淡々と告げた。
「業務が滞っている。
誰がどの判断を下していたのか、把握できていないらしい」
それを聞いても、胸は動かない。
ああ、そうでしょうね、という感想だけが浮かぶ。
「引き継ぎを求めてきたが、断ったそうだな」
「ええ。部外者ですもの」
言い切ると、公爵は小さく笑った。
「正しい」
その一言に、リュシエンヌは少しだけ目を見開いた。
「お前は、もう王宮の人間ではない。
善意で関わるほど、向こうは依存する」
まるで、昔から分かっていたことのような口調だった。
「だから、ひとつ確認しておきたい」
公爵は、真っ直ぐに娘を見る。
「これから、お前はどうするつもりだ?」
問いは重いはずなのに、リュシエンヌの心は不思議と軽かった。
少し考えてから、彼女は答える。
「……何もしません」
公爵は、眉一つ動かさない。
「本当に、それでいいのか」
「はい」
迷いはなかった。
「これまで、十分すぎるほど働きました。
誰かの期待に応え、役に立ち、失敗しないように生きてきました」
一息ついて、続ける。
「でも……それは、わたくしの人生ではありませんでしたわ」
公爵は、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと頷いた。
「ならば、それでいい」
それ以上、何も言わない。
説教も、助言もない。
それが、何よりの肯定だった。
父が部屋を出たあと、リュシエンヌは椅子に深くもたれた。
(……もう、働きません)
声に出さず、心の中で宣言する。
王宮では、それは怠慢と呼ばれただろう。
無責任だと、非難されたかもしれない。
だが今は違う。
ここでは、“選択”だ。
午後は、読書をした。
実用書でも、政治文書でもない。
ただの物語。
途中で眠くなり、ページに栞を挟んで目を閉じる。
誰にも咎められない、昼寝。
夕方、庭を少し歩いた。
目的もなく、ただ足の向くままに。
「……悪くありませんわね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
何もしない一日。
それは、驚くほど満ち足りていた。
そして同時に、リュシエンヌは気づいていなかった。
王宮ではすでに、
「彼女がいない」という事実が、確実に混乱を広げ始めていることを。
だが、それも――もう、彼女の仕事ではない。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
静かに、しかし確固たる意志をもって、そう決めていた。
もう、働きません。
翌朝、リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、本当に昼近くまで眠っていた。
目を覚ましたのは、カーテン越しに射し込む光が、いつもより高い位置にあると気づいたからだ。
時計を見る。――まだ午前だが、王宮にいた頃なら、とっくに一日の半分は終えている時間だった。
「……遅い朝、ですわね」
そう呟いても、胸に焦りは湧かない。
むしろ、深く息を吸い込むと、体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
身支度を整えるために呼び鈴を鳴らすと、侍女が入ってくる。
彼女は、どこか様子をうかがうように視線を伏せていた。
「本日のご予定は……」
言いかけて、言葉を止める。
――そうだ。予定など、ない。
「ありませんわ」
リュシエンヌは、あっさりと言った。
「……え?」
「今日は、何もいたしません」
侍女は、目を瞬かせた。
長年、主の予定が“空白”になることなど、ほとんどなかったのだろう。
「では……お茶のご用意だけ、いたしましょうか」
「ええ。お気に入りの茶葉で。
あとは……気分次第ですわ」
それだけで、会話は終わった。
命令も、指示も、細かい段取りもない。
リュシエンヌは椅子に腰を下ろし、庭を眺める。
風に揺れる木々。
忙しなくない、ただの朝。
(こんな時間が、あったのですね)
しばらくして、紅茶が運ばれてくる。
香りを確かめ、一口含む。
「……美味しい」
それだけで、少し幸せだと思えた。
そのとき、部屋の外がわずかに騒がしくなった。
足音。
低い声。
やがて、父であるヴァイセル公爵が姿を現す。
「起きたか」
「ええ。おはようございます、お父様」
公爵は、彼女の顔色を一瞥し、頷いた。
「……よく眠れたようだな」
「はい。久しぶりに」
短いやり取り。
それで十分だった。
だが、公爵はそのまま部屋を出ようとはせず、椅子に腰を下ろした。
「王宮から、連絡があった」
来るだろうとは思っていた。
リュシエンヌは、特に驚きもせず、紅茶を置く。
「やはり、困っていらっしゃるのですね」
「正確には――慌てている」
公爵は淡々と告げた。
「業務が滞っている。
誰がどの判断を下していたのか、把握できていないらしい」
それを聞いても、胸は動かない。
ああ、そうでしょうね、という感想だけが浮かぶ。
「引き継ぎを求めてきたが、断ったそうだな」
「ええ。部外者ですもの」
言い切ると、公爵は小さく笑った。
「正しい」
その一言に、リュシエンヌは少しだけ目を見開いた。
「お前は、もう王宮の人間ではない。
善意で関わるほど、向こうは依存する」
まるで、昔から分かっていたことのような口調だった。
「だから、ひとつ確認しておきたい」
公爵は、真っ直ぐに娘を見る。
「これから、お前はどうするつもりだ?」
問いは重いはずなのに、リュシエンヌの心は不思議と軽かった。
少し考えてから、彼女は答える。
「……何もしません」
公爵は、眉一つ動かさない。
「本当に、それでいいのか」
「はい」
迷いはなかった。
「これまで、十分すぎるほど働きました。
誰かの期待に応え、役に立ち、失敗しないように生きてきました」
一息ついて、続ける。
「でも……それは、わたくしの人生ではありませんでしたわ」
公爵は、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと頷いた。
「ならば、それでいい」
それ以上、何も言わない。
説教も、助言もない。
それが、何よりの肯定だった。
父が部屋を出たあと、リュシエンヌは椅子に深くもたれた。
(……もう、働きません)
声に出さず、心の中で宣言する。
王宮では、それは怠慢と呼ばれただろう。
無責任だと、非難されたかもしれない。
だが今は違う。
ここでは、“選択”だ。
午後は、読書をした。
実用書でも、政治文書でもない。
ただの物語。
途中で眠くなり、ページに栞を挟んで目を閉じる。
誰にも咎められない、昼寝。
夕方、庭を少し歩いた。
目的もなく、ただ足の向くままに。
「……悪くありませんわね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
何もしない一日。
それは、驚くほど満ち足りていた。
そして同時に、リュシエンヌは気づいていなかった。
王宮ではすでに、
「彼女がいない」という事実が、確実に混乱を広げ始めていることを。
だが、それも――もう、彼女の仕事ではない。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
静かに、しかし確固たる意志をもって、そう決めていた。
もう、働きません。
10
あなたにおすすめの小説
欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜
水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。
魔王乱立の時代。
王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。
だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。
にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。
抗議はしない。
訂正もしない。
ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。
――それが、誰にとっての不合格なのか。
まだ、誰も気づいていない。
欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。
ムラサメ
恋愛
「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」
婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。
泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。
「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」
汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。
「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。
一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。
自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。
ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。
「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」
圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。
桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。
「不細工なお前とは婚約破棄したい」
この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。
※短編です。11/21に完結いたします。
※1回の投稿文字数は少な目です。
※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。
表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。
❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
1ページの文字数は少な目です。
約4800文字程度の番外編です。
バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`)
ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑)
※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。
婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話
ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。
リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。
婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。
どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。
死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて……
※正常な人があまりいない話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる