10 / 40
第十話 露わになるもの
しおりを挟む
第十話 露わになるもの
王宮の空気は、確実に変わっていた。
目に見える混乱は、まだ小さい。
書類が少し遅れる。
決定が一日、二日と延びる。
だが、それは“偶然”や“一時的な不調”として片づけられる程度のものだった。
――問題は、その積み重ねだった。
「……また、差し戻しですか?」
若い官吏が、思わず声を落とす。
「ええ。理由は……『もう一度検討する必要がある』だそうです」
その言葉に、周囲の空気が沈む。
検討、という言葉ほど便利で、無責任なものはない。
判断できない人間が、時間を稼ぐために使う言葉だ。
本来なら、この段階で方向性を定め、細部を詰めるはずだった案件が、宙に浮いたまま放置されている。
「……以前なら、ここで止まることはありませんでしたよね」
誰かが、ぽつりと呟く。
その“以前”が、いつを指すのか。
口に出さずとも、全員が理解していた。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセル。
彼女がいた頃、決裁は滞らなかった。
なぜなら、王太子が迷い始める前に、
選択肢を整理し、利点と欠点を提示し、
“迷いにくい形”にして差し出していたからだ。
だが今、その役割を担う者はいない。
「殿下に、お伺いを立て直しますか?」
「……それで、結論が出ますか?」
問いに、答えはない。
一方、王太子ユリウスは、執務室で苛立ちを募らせていた。
「なぜ、こんなにも些細なことが決められない!」
机に拳を打ち付け、書類が揺れる。
「これまで、ちゃんとやってきただろう!」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
だが現実は、残酷だ。
これまで“やってきた”つもりだったことの多くは、
実際には“整えられた環境の上で、選ばされていた”に過ぎない。
判断材料は、すでに揃っていた。
衝突は避けられていた。
地雷は、あらかじめ除かれていた。
その土台を作っていた人物が消えた途端、
王太子は、自分が裸で立っていることに気づいた。
「……あの女は」
思わず漏れた言葉に、側近たちが一瞬、身構える。
「……いや」
ユリウスは言葉を切り、深く息を吐いた。
「彼女がいなくても、問題ないと言ったのは、俺だ」
その事実が、胸に重くのしかかる。
新しい婚約者――平民出身の令嬢は、王宮の一角で、居心地の悪さを感じていた。
(……皆、私を見ている)
好奇の目。
期待の目。
そして、測るような視線。
彼女は、努力していた。
礼儀作法を学び、言葉遣いに気を配り、
できる限り王太子を支えようとしている。
だが――
「……あの、こちらの場では、どう振る舞えば……」
貴族たちの微妙な空気に戸惑い、誰かに尋ねる。
だが、明確な答えは返ってこない。
なぜなら、以前は“聞く前に整っていた”からだ。
誰と誰が同席してよいか。
どの話題に触れてはいけないか。
そのすべてが、暗黙の了解として機能していた。
それを可能にしていた存在が、いない。
(……私、何か間違えている?)
不安が、少しずつ膨らんでいく。
その頃、ヴァイセル公爵家では――
「……最近、静かですわね」
リュシエンヌが、穏やかな声で言った。
庭に面した部屋で、紅茶を飲みながら、空を見上げる。
王宮からの使者は、ここ数日、ぱったりと来なくなっていた。
それが、何を意味するのか。
彼女は、よく分かっている。
(問題が、表に出始めた、ということですわ)
助けを求める前に、まず内部で何とかしようとする。
それは、組織としては正しい判断だ。
だが、同時に――
その過程で、“誰が何もできていなかったのか”が、
否応なく露わになる。
「……人は、自分が支えられていたことに、
失ってから気づくものなのですね」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
王宮ではこの日、いくつもの“小さな失敗”が積み重なった。
外交使節の不興を買い、
貴族の一部が距離を取り、
官吏たちの間に、不安が広がる。
それは、まだ致命傷ではない。
だが、確実に信頼を削っていく。
そして、その原因が――
誰かの不在であることに、
多くの人間が、ようやく気づき始めていた。
だが。
「……だからといって」
リュシエンヌは、静かに紅茶を置く。
「戻る理由には、なりませんわ」
露わになったのは、王太子の未熟さであり、
王宮の依存体質であり、
そして――彼女自身が、どれほど無理をして支えていたか、という事実だ。
それを、彼女はもう、引き受けない。
何もしないことで、
初めて見えるものがある。
第十話の終わりに、
王宮では誰かが、はっきりと口にした。
「……彼女が、優秀だったのではない。
彼女に、頼りきっていたのだ」
その言葉は、
静かに、しかし取り返しのつかない重さで、
王宮の中に落ちていった。
王宮の空気は、確実に変わっていた。
目に見える混乱は、まだ小さい。
書類が少し遅れる。
決定が一日、二日と延びる。
だが、それは“偶然”や“一時的な不調”として片づけられる程度のものだった。
――問題は、その積み重ねだった。
「……また、差し戻しですか?」
若い官吏が、思わず声を落とす。
「ええ。理由は……『もう一度検討する必要がある』だそうです」
その言葉に、周囲の空気が沈む。
検討、という言葉ほど便利で、無責任なものはない。
判断できない人間が、時間を稼ぐために使う言葉だ。
本来なら、この段階で方向性を定め、細部を詰めるはずだった案件が、宙に浮いたまま放置されている。
「……以前なら、ここで止まることはありませんでしたよね」
誰かが、ぽつりと呟く。
その“以前”が、いつを指すのか。
口に出さずとも、全員が理解していた。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセル。
彼女がいた頃、決裁は滞らなかった。
なぜなら、王太子が迷い始める前に、
選択肢を整理し、利点と欠点を提示し、
“迷いにくい形”にして差し出していたからだ。
だが今、その役割を担う者はいない。
「殿下に、お伺いを立て直しますか?」
「……それで、結論が出ますか?」
問いに、答えはない。
一方、王太子ユリウスは、執務室で苛立ちを募らせていた。
「なぜ、こんなにも些細なことが決められない!」
机に拳を打ち付け、書類が揺れる。
「これまで、ちゃんとやってきただろう!」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
だが現実は、残酷だ。
これまで“やってきた”つもりだったことの多くは、
実際には“整えられた環境の上で、選ばされていた”に過ぎない。
判断材料は、すでに揃っていた。
衝突は避けられていた。
地雷は、あらかじめ除かれていた。
その土台を作っていた人物が消えた途端、
王太子は、自分が裸で立っていることに気づいた。
「……あの女は」
思わず漏れた言葉に、側近たちが一瞬、身構える。
「……いや」
ユリウスは言葉を切り、深く息を吐いた。
「彼女がいなくても、問題ないと言ったのは、俺だ」
その事実が、胸に重くのしかかる。
新しい婚約者――平民出身の令嬢は、王宮の一角で、居心地の悪さを感じていた。
(……皆、私を見ている)
好奇の目。
期待の目。
そして、測るような視線。
彼女は、努力していた。
礼儀作法を学び、言葉遣いに気を配り、
できる限り王太子を支えようとしている。
だが――
「……あの、こちらの場では、どう振る舞えば……」
貴族たちの微妙な空気に戸惑い、誰かに尋ねる。
だが、明確な答えは返ってこない。
なぜなら、以前は“聞く前に整っていた”からだ。
誰と誰が同席してよいか。
どの話題に触れてはいけないか。
そのすべてが、暗黙の了解として機能していた。
それを可能にしていた存在が、いない。
(……私、何か間違えている?)
不安が、少しずつ膨らんでいく。
その頃、ヴァイセル公爵家では――
「……最近、静かですわね」
リュシエンヌが、穏やかな声で言った。
庭に面した部屋で、紅茶を飲みながら、空を見上げる。
王宮からの使者は、ここ数日、ぱったりと来なくなっていた。
それが、何を意味するのか。
彼女は、よく分かっている。
(問題が、表に出始めた、ということですわ)
助けを求める前に、まず内部で何とかしようとする。
それは、組織としては正しい判断だ。
だが、同時に――
その過程で、“誰が何もできていなかったのか”が、
否応なく露わになる。
「……人は、自分が支えられていたことに、
失ってから気づくものなのですね」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
王宮ではこの日、いくつもの“小さな失敗”が積み重なった。
外交使節の不興を買い、
貴族の一部が距離を取り、
官吏たちの間に、不安が広がる。
それは、まだ致命傷ではない。
だが、確実に信頼を削っていく。
そして、その原因が――
誰かの不在であることに、
多くの人間が、ようやく気づき始めていた。
だが。
「……だからといって」
リュシエンヌは、静かに紅茶を置く。
「戻る理由には、なりませんわ」
露わになったのは、王太子の未熟さであり、
王宮の依存体質であり、
そして――彼女自身が、どれほど無理をして支えていたか、という事実だ。
それを、彼女はもう、引き受けない。
何もしないことで、
初めて見えるものがある。
第十話の終わりに、
王宮では誰かが、はっきりと口にした。
「……彼女が、優秀だったのではない。
彼女に、頼りきっていたのだ」
その言葉は、
静かに、しかし取り返しのつかない重さで、
王宮の中に落ちていった。
10
あなたにおすすめの小説
欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜
水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。
魔王乱立の時代。
王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。
だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。
にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。
抗議はしない。
訂正もしない。
ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。
――それが、誰にとっての不合格なのか。
まだ、誰も気づいていない。
欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。
ムラサメ
恋愛
「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」
婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。
泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。
「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」
汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。
「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。
一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。
自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。
ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。
「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」
圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。
桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。
「不細工なお前とは婚約破棄したい」
この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。
※短編です。11/21に完結いたします。
※1回の投稿文字数は少な目です。
※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。
表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。
❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
1ページの文字数は少な目です。
約4800文字程度の番外編です。
バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`)
ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑)
※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。
婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話
ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。
リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。
婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。
どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。
死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて……
※正常な人があまりいない話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる