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第九話 王宮で起きている異変
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第九話 王宮で起きている異変
王宮の朝は、いつも騒がしい。
それは平常運転――のはずだった。
だがこの数日、その“騒がしさ”の質が変わっていた。
「……まだ、決裁が下りていないのですか?」
「はい。殿下が“確認中”とのことで……」
廊下の片隅で交わされる声には、焦りが混じっている。
書類を抱えた官吏たちは、何度も行き来しながら、同じ場所で立ち止まり、同じやり取りを繰り返していた。
本来なら、とっくに片付いている案件だ。
王太子ユリウスは、執務室で腕を組み、机の上に積まれた書類を睨んでいた。
量が多いわけではない。
内容が難解なわけでもない。
ただ――判断が、できない。
(……なぜ、こんなにも分からない)
以前は、目を通せば自然と結論が浮かんできた。
優先順位も、影響範囲も、どこまで許容できるかも。
だが今は、どの書類も重く感じる。
一つ決めれば、別の問題が生じる気がして、手が止まる。
「殿下……こちらの件ですが」
側近が声をかける。
「これは……先方の要望を受け入れるべきでしょうか?」
ユリウスは口を開きかけて、閉じた。
以前なら、ここで――
(……そうだ、彼女はどう判断していた?)
無意識に浮かんだ名前に、眉をひそめる。
リュシエンヌ。
あの女は、いつも“ちょうどいい答え”を出していた。
強気すぎず、弱気すぎず。
誰かを露骨に敵に回さず、それでいて王家の不利益を最小限に抑える。
その判断が、どれほどの積み重ねの上に成り立っていたのか――
今になって、ようやく思い知らされていた。
「……少し、待て」
結局、そう言うしかない。
側近が下がり、執務室には沈黙が落ちた。
そのころ、別の場所でも異変は起きていた。
「……あの調整、まだ終わっていないの?」
「担当が、誰なのか分からなくて……」
貴族間の根回し。
これまで“自然に済んでいた”それが、完全に止まっていた。
なぜなら――
それを担っていた人物が、もう王宮にいないからだ。
「……以前は、ヴァイセル公爵令嬢が」
誰かが口にしかけて、慌てて止める。
口に出すのが、禁句になりつつあった。
王太子が婚約を破棄した相手の名を、
いまさら引き合いに出すのは、気まずい。
だが、現実は現実だ。
外交文書の表現が微妙にずれ、
貴族同士の距離感が掴めず、
社交の場で交わされる言葉が、必要以上に波風を立てる。
「……こんなはずでは」
王太子は、苛立ちを隠せずに机を叩いた。
「彼女がいなくても、問題ないと言っただろう!」
側近たちは、誰も答えなかった。
否定も、肯定もできない。
問題は、すでに起きている。
一方その頃――
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、屋敷の庭で、穏やかに昼食を取っていた。
「……空が、きれいですわね」
ただそれだけの感想を口にし、スープを一口含む。
王宮で何が起きているのか、詳しい報告は届いていない。
だが、薄々は分かっていた。
(あら……もう、影響が出始めましたのね)
それでも、胸は動かない。
自分が抜ければ混乱する。
それは、予想していたことだ。
だが同時に――
(だからといって、戻る理由にはなりませんわ)
困っているから助ける。
それを繰り返してきた結果が、婚約破棄だった。
ならば今回は、困らせたままにする。
それが、選んだ距離の取り方だ。
王宮では、その日の午後も、決裁が滞った。
外交使節は不満を募らせ、
貴族たちは様子見を始め、
王太子の評価は、静かに下がり始めている。
だが――
その中心に、リュシエンヌの姿はない。
彼女はただ、
庭を歩き、
紅茶を飲み、
昼まで眠り、
何もしない日々を続けている。
そしてその“何もしない”という選択こそが、
王宮という巨大な組織の脆さを、
容赦なく浮き彫りにしていく。
誰かが、遅すぎる疑問を口にした。
「……もしかして、
彼女がいないと、回らないのでは?」
だがその問いに、
答えてくれる本人は、もうそこにはいなかった。
王宮の朝は、いつも騒がしい。
それは平常運転――のはずだった。
だがこの数日、その“騒がしさ”の質が変わっていた。
「……まだ、決裁が下りていないのですか?」
「はい。殿下が“確認中”とのことで……」
廊下の片隅で交わされる声には、焦りが混じっている。
書類を抱えた官吏たちは、何度も行き来しながら、同じ場所で立ち止まり、同じやり取りを繰り返していた。
本来なら、とっくに片付いている案件だ。
王太子ユリウスは、執務室で腕を組み、机の上に積まれた書類を睨んでいた。
量が多いわけではない。
内容が難解なわけでもない。
ただ――判断が、できない。
(……なぜ、こんなにも分からない)
以前は、目を通せば自然と結論が浮かんできた。
優先順位も、影響範囲も、どこまで許容できるかも。
だが今は、どの書類も重く感じる。
一つ決めれば、別の問題が生じる気がして、手が止まる。
「殿下……こちらの件ですが」
側近が声をかける。
「これは……先方の要望を受け入れるべきでしょうか?」
ユリウスは口を開きかけて、閉じた。
以前なら、ここで――
(……そうだ、彼女はどう判断していた?)
無意識に浮かんだ名前に、眉をひそめる。
リュシエンヌ。
あの女は、いつも“ちょうどいい答え”を出していた。
強気すぎず、弱気すぎず。
誰かを露骨に敵に回さず、それでいて王家の不利益を最小限に抑える。
その判断が、どれほどの積み重ねの上に成り立っていたのか――
今になって、ようやく思い知らされていた。
「……少し、待て」
結局、そう言うしかない。
側近が下がり、執務室には沈黙が落ちた。
そのころ、別の場所でも異変は起きていた。
「……あの調整、まだ終わっていないの?」
「担当が、誰なのか分からなくて……」
貴族間の根回し。
これまで“自然に済んでいた”それが、完全に止まっていた。
なぜなら――
それを担っていた人物が、もう王宮にいないからだ。
「……以前は、ヴァイセル公爵令嬢が」
誰かが口にしかけて、慌てて止める。
口に出すのが、禁句になりつつあった。
王太子が婚約を破棄した相手の名を、
いまさら引き合いに出すのは、気まずい。
だが、現実は現実だ。
外交文書の表現が微妙にずれ、
貴族同士の距離感が掴めず、
社交の場で交わされる言葉が、必要以上に波風を立てる。
「……こんなはずでは」
王太子は、苛立ちを隠せずに机を叩いた。
「彼女がいなくても、問題ないと言っただろう!」
側近たちは、誰も答えなかった。
否定も、肯定もできない。
問題は、すでに起きている。
一方その頃――
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、屋敷の庭で、穏やかに昼食を取っていた。
「……空が、きれいですわね」
ただそれだけの感想を口にし、スープを一口含む。
王宮で何が起きているのか、詳しい報告は届いていない。
だが、薄々は分かっていた。
(あら……もう、影響が出始めましたのね)
それでも、胸は動かない。
自分が抜ければ混乱する。
それは、予想していたことだ。
だが同時に――
(だからといって、戻る理由にはなりませんわ)
困っているから助ける。
それを繰り返してきた結果が、婚約破棄だった。
ならば今回は、困らせたままにする。
それが、選んだ距離の取り方だ。
王宮では、その日の午後も、決裁が滞った。
外交使節は不満を募らせ、
貴族たちは様子見を始め、
王太子の評価は、静かに下がり始めている。
だが――
その中心に、リュシエンヌの姿はない。
彼女はただ、
庭を歩き、
紅茶を飲み、
昼まで眠り、
何もしない日々を続けている。
そしてその“何もしない”という選択こそが、
王宮という巨大な組織の脆さを、
容赦なく浮き彫りにしていく。
誰かが、遅すぎる疑問を口にした。
「……もしかして、
彼女がいないと、回らないのでは?」
だがその問いに、
答えてくれる本人は、もうそこにはいなかった。
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