『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

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第十話 露わになるもの

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第十話 露わになるもの

 王宮の空気は、確実に変わっていた。

 目に見える混乱は、まだ小さい。
 書類が少し遅れる。
 決定が一日、二日と延びる。
 だが、それは“偶然”や“一時的な不調”として片づけられる程度のものだった。

 ――問題は、その積み重ねだった。

「……また、差し戻しですか?」

 若い官吏が、思わず声を落とす。

「ええ。理由は……『もう一度検討する必要がある』だそうです」

 その言葉に、周囲の空気が沈む。
 検討、という言葉ほど便利で、無責任なものはない。
 判断できない人間が、時間を稼ぐために使う言葉だ。

 本来なら、この段階で方向性を定め、細部を詰めるはずだった案件が、宙に浮いたまま放置されている。

「……以前なら、ここで止まることはありませんでしたよね」

 誰かが、ぽつりと呟く。

 その“以前”が、いつを指すのか。
 口に出さずとも、全員が理解していた。

 リュシエンヌ・フォン・ヴァイセル。

 彼女がいた頃、決裁は滞らなかった。
 なぜなら、王太子が迷い始める前に、
 選択肢を整理し、利点と欠点を提示し、
 “迷いにくい形”にして差し出していたからだ。

 だが今、その役割を担う者はいない。

「殿下に、お伺いを立て直しますか?」

「……それで、結論が出ますか?」

 問いに、答えはない。

 一方、王太子ユリウスは、執務室で苛立ちを募らせていた。

「なぜ、こんなにも些細なことが決められない!」

 机に拳を打ち付け、書類が揺れる。

「これまで、ちゃんとやってきただろう!」

 その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 だが現実は、残酷だ。

 これまで“やってきた”つもりだったことの多くは、
 実際には“整えられた環境の上で、選ばされていた”に過ぎない。

 判断材料は、すでに揃っていた。
 衝突は避けられていた。
 地雷は、あらかじめ除かれていた。

 その土台を作っていた人物が消えた途端、
 王太子は、自分が裸で立っていることに気づいた。

「……あの女は」

 思わず漏れた言葉に、側近たちが一瞬、身構える。

「……いや」

 ユリウスは言葉を切り、深く息を吐いた。

「彼女がいなくても、問題ないと言ったのは、俺だ」

 その事実が、胸に重くのしかかる。

 新しい婚約者――平民出身の令嬢は、王宮の一角で、居心地の悪さを感じていた。

(……皆、私を見ている)

 好奇の目。
 期待の目。
 そして、測るような視線。

 彼女は、努力していた。
 礼儀作法を学び、言葉遣いに気を配り、
 できる限り王太子を支えようとしている。

 だが――

「……あの、こちらの場では、どう振る舞えば……」

 貴族たちの微妙な空気に戸惑い、誰かに尋ねる。

 だが、明確な答えは返ってこない。

 なぜなら、以前は“聞く前に整っていた”からだ。

 誰と誰が同席してよいか。
 どの話題に触れてはいけないか。
 そのすべてが、暗黙の了解として機能していた。

 それを可能にしていた存在が、いない。

(……私、何か間違えている?)

 不安が、少しずつ膨らんでいく。

 その頃、ヴァイセル公爵家では――

「……最近、静かですわね」

 リュシエンヌが、穏やかな声で言った。

 庭に面した部屋で、紅茶を飲みながら、空を見上げる。
 王宮からの使者は、ここ数日、ぱったりと来なくなっていた。

 それが、何を意味するのか。
 彼女は、よく分かっている。

(問題が、表に出始めた、ということですわ)

 助けを求める前に、まず内部で何とかしようとする。
 それは、組織としては正しい判断だ。

 だが、同時に――
 その過程で、“誰が何もできていなかったのか”が、
 否応なく露わになる。

「……人は、自分が支えられていたことに、
 失ってから気づくものなのですね」

 誰に向けるでもなく、そう呟く。

 王宮ではこの日、いくつもの“小さな失敗”が積み重なった。
 外交使節の不興を買い、
 貴族の一部が距離を取り、
 官吏たちの間に、不安が広がる。

 それは、まだ致命傷ではない。
 だが、確実に信頼を削っていく。

 そして、その原因が――
 誰かの不在であることに、
 多くの人間が、ようやく気づき始めていた。

 だが。

「……だからといって」

 リュシエンヌは、静かに紅茶を置く。

「戻る理由には、なりませんわ」

 露わになったのは、王太子の未熟さであり、
 王宮の依存体質であり、
 そして――彼女自身が、どれほど無理をして支えていたか、という事実だ。

 それを、彼女はもう、引き受けない。

 何もしないことで、
 初めて見えるものがある。

 第十話の終わりに、
 王宮では誰かが、はっきりと口にした。

「……彼女が、優秀だったのではない。
 彼女に、頼りきっていたのだ」

 その言葉は、
 静かに、しかし取り返しのつかない重さで、
 王宮の中に落ちていった。
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