『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

文字の大きさ
16 / 40

第十六話 戻れない一線

しおりを挟む
第十六話 戻れない一線

 王宮の一室で、重苦しい沈黙が流れていた。

 王太子ユリウスの前には、側近と数名の官吏が控えている。
 誰もが、言葉を選びあぐねていた。

 ――これ以上、問題を先送りにはできない。

 外交の返答は遅れ、
 貴族たちは距離を取り、
 新しい婚約者は不安を募らせている。

 そして何より――
 “あの名”が、あまりにも頻繁に口に上るようになっていた。

「……殿下」

 ついに、年長の側近が口を開いた。

「率直に申し上げます。
 このままでは、王宮の混乱は収まりません」

 ユリウスは、わずかに目を伏せる。

「分かっている」

 そう答えながらも、声に力はなかった。

「では……」

 側近は一瞬、ためらったあと、続ける。

「ヴァイセル公爵令嬢に、
 一度、お声をかけてみては……」

 その瞬間、室内の空気が張り詰めた。

 誰もが、その提案が“禁じ手”であることを理解している。
 だが同時に、
 それ以外の解決策が見えないことも、
 痛いほど分かっていた。

 ユリウスは、ゆっくりと顔を上げた。

「……戻ってもらう、ということか」

「いえ」

 側近は、慎重に首を振る。

「“相談する”だけでも、状況は変わるかと」

 その言葉に、ユリウスは苦く笑った。

「相談、か……」

 それは、あまりにも都合のいい言い換えだった。

 困ったから呼ぶ。
 整えてもらう。
 そして、また当然のように扱う。

 ――以前と、何が違う?

「……彼女は、応じると思うか?」

 その問いに、誰も即答できなかった。

 一方、ヴァイセル公爵家。

 夕暮れの差し込む部屋で、
 リュシエンヌは、静かに本を閉じた。

「……王宮から、使者が来ています」

 侍女の報告は、短く、しかし意味深だった。

 その一言だけで、
 彼女はすべてを察する。

(……ついに、ですか)

 焦りが限界に達した。
 それだけのことだ。

「お通しして」

 声は、驚くほど穏やかだった。

 現れた使者は、王宮付きの高位官吏。
 かつては、彼女に何度も助言を仰いできた人物だ。

「……ご無沙汰しております、リュシエンヌ様」

「ええ」

 挨拶は、最低限。

「本日は、
 殿下より、どうしてもお伝えしたいことがあると……」

 その言葉の続きを、
 彼女は黙って待つ。

「……王宮が、少々混乱しておりまして」

 少々、という表現に、
 彼女は心の中で小さく息を吐いた。

「殿下は、
 貴女のご意見を一度、伺いたいと」

 その瞬間、
 リュシエンヌは、はっきりと理解した。

 ――これが、“戻れない一線”なのだと。

「……ご意見、ですか」

 ゆっくりと、言葉を反芻する。

「それは、
 “王太子の元婚約者”としての意見でしょうか。
 それとも、
 “以前のように働く者”としての意見でしょうか」

 使者は、言葉に詰まった。

「……その、後者では……」

 そこで、彼女は、静かに首を振った。

「でしたら、お断りいたします」

 即答だった。

「……なぜ」

 思わず漏れた問いに、
 リュシエンヌは、淡々と答える。

「理由は、簡単ですわ」

 視線を逸らさず、
 はっきりと告げる。

「“困ったから呼ぶ”
 その時点で、
 以前と何も変わっていないからです」

 使者は、言葉を失った。

「わたくしは、もう、
 王宮の調整役ではありません」

 静かに、しかし強く。

「戻れば、また同じことを繰り返す。
 それが分かっている以上、
 お受けすることはできません」

 沈黙が落ちる。

 やがて、使者は深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

 それ以上、何も言えなかった。

 夜。

 王宮に戻った使者から報告を受け、
 ユリウスは、椅子に深く腰を下ろした。

「……断られた、か」

 想像はしていた。
 だが、実際に突きつけられると、
 胸の奥が、鈍く痛んだ。

「彼女は……正しい」

 ぽつりと呟く。

 困ったから呼ぶ。
 それが、彼女を追い詰めた原因だった。

 ――それでも。

「……もう、後戻りはできないのか」

 誰にも答えられない問いが、
 静かに宙に浮かぶ。

 一方、ヴァイセル公爵家では。

「……これで、完全に線を引きましたわね」

 侍女の言葉に、
 リュシエンヌは小さく頷いた。

「ええ」

 迷いはない。

「優しさで戻れば、
 自分を壊すだけですもの」

 それが、ようやく学んだことだった。

 王宮と彼女の間には、
 見えないが、確かな線が引かれた。

 それは、怒りでも、復讐でもない。

 ――自分の人生を守るための、一線。

 そしてその一線は、
 王宮の混乱を止めることなく、
 むしろ、
 “自分たちで立たねばならない現実”を
 突きつけることになる。

 誰かに支えられていた場所は、
 支えを失った瞬間、
 その脆さを露わにする。

 リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
 もう、振り返らない。

 戻れない一線は、
 確かに引かれたのだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜

水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。 魔王乱立の時代。 王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。 だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。 にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。 抗議はしない。 訂正もしない。 ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。 ――それが、誰にとっての不合格なのか。 まだ、誰も気づいていない。 欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。

婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。

ムラサメ
恋愛
​「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」 ​婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。 泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。 ​「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」 ​汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。 「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。 ​一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。 自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。 ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。 ​「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」 ​圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

【完結】お父様の再婚相手は美人様

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 シャルルの父親が子連れと再婚した!  二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。  でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。

【完結】私を捨てた国のその後を見守ってみた。

satomi
恋愛
侯爵令嬢のレナは公然の場でというか、卒業パーティーで王太子殿下イズライールに婚約破棄をされた挙句、王太子殿下は男爵令嬢のラーラと婚約を宣言。 殿下は陛下や王妃様がいないときを狙ったんでしょうね。 レナの父はアルロジラ王国の宰相です。実家にはレナの兄が4名いますがみんなそろいもそろって優秀。 長男は領地経営、次男は貿易商、3男は情報屋、4男は…オカマバー経営。 レナは殿下に愛想をつかして、アルロジラ王国の行く末を見守ろうと決意するのです。 次男監修により、国交の断絶しているエミューダ帝国にて。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

処理中です...