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第十五話 焦り始める新しい婚約者
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第十五話 焦り始める新しい婚約者
王宮の中で、最も居心地の悪い場所にいるのは――
おそらく、新しい婚約者である彼女だった。
平民出身の令嬢。
努力と情熱で王太子の心を掴んだとされる存在。
だが今、彼女は王宮の廊下を歩きながら、背中に突き刺さる視線を痛いほど感じていた。
(……皆、私を見ている)
直接的な敵意はない。
露骨な無礼もない。
だが、その分、余計に辛い。
評価されているのか。
測られているのか。
それとも――失望されているのか。
分からない。
ただひとつ確かなのは、
自分が“歓迎されていない”という感覚だけだった。
「……殿下」
執務室に入ると、王太子ユリウスが机に向かっていた。
書類の山。
以前より、明らかに増えている。
「どうしました?」
声をかけても、返事が遅れる。
「……ああ」
ようやく顔を上げた彼の表情は、疲労を隠しきれていなかった。
(……忙しそう)
以前は、もっと余裕があった。
彼女の話にも、笑顔で応じてくれた。
今は違う。
「殿下……最近、周囲の空気が……」
言葉を選びながら切り出す。
「皆、私に何か期待しているようで……
でも、何を求められているのか、分からなくて……」
ユリウスは、眉をひそめた。
「気にする必要はない」
即答だったが、
その声には、以前の自信がない。
「君は、君のままでいればいい」
優しい言葉のはずなのに、
彼女の胸には、なぜか不安が広がった。
(……“ままでいい”って、何?)
具体的に何をすればいいのか。
何をすれば評価されるのか。
それが、分からない。
王宮では、曖昧さは致命的だ。
社交の場でも、同じだった。
晩餐会で隣に座った貴族夫人が、微笑みながら言う。
「……最近、お忙しそうですわね」
それは、ただの世間話のようでいて、
探るような響きを含んでいた。
「ええ……少し」
「そうでしょうとも。
王太子妃殿下となる方ですもの」
その言葉に、胸が詰まる。
(……殿下、ではなく、“妃”として)
だが、続く言葉がなかった。
何を期待しているのか。
どう振る舞うべきか。
誰も教えてくれない。
――以前は、すべて整っていた。
誰と話すべきか。
どの話題を選ぶべきか。
どこで一歩引くべきか。
今は、その“空気”が存在しない。
夜、自室に戻り、彼女は椅子に腰を下ろした。
(……私、間違っているの?)
努力はしている。
学ぶ姿勢もある。
だが、それだけでは足りないことを、
肌で感じ始めていた。
王宮は、努力だけで受け入れてくれる場所ではない。
立場と、影響力と、
“場を読む力”が求められる。
それを――
以前は、誰かが代わりに読んでくれていた。
(……あの人)
ふと、脳裏をよぎる名前。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセル。
婚約破棄された相手。
本来なら、比較すべきではない存在。
だが、比較は勝手に行われる。
「……あの方なら、どうしていたのかしら」
呟いた瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。
自分は、
彼女の代わりではない。
彼女になろうとしているわけでもない。
それなのに――
王宮は、無言のうちに、
“同じ役割”を求めている。
その矛盾が、彼女を追い詰めていく。
翌日、王太子に再び声をかけた。
「……殿下。
私にも、何かお手伝いできることはありませんか?」
その問いは、切実だった。
だが、ユリウスは一瞬、言葉に詰まった。
「……今は、特に」
その沈黙が、すべてを物語っていた。
必要とされていない。
だが、いなければならない。
それは、最も不安定な立場だ。
一方、ヴァイセル公爵家では――
「……焦っていますわね」
リュシエンヌが、紅茶を飲みながら、静かに言った。
王宮から届く断片的な報告だけで、
状況は十分に読み取れる。
「役割を与えられないまま、
期待だけを背負わされる」
それが、どれほど辛いことか。
彼女は、よく知っていた。
だからこそ――
(……わたくしは、戻りません)
同情はあっても、
介入する理由はない。
誰かの未熟さを、
再び引き受けるつもりはない。
王宮ではこの日、
新しい婚約者の表情に、
はっきりとした“焦り”が浮かび始めた。
それは、
まだ小さな亀裂に過ぎない。
だが――
その亀裂こそが、
後に、取り返しのつかない崩れへと
繋がっていくことになる。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
今日もまた、
何もしていない。
そしてその“何もしない”という選択が、
王宮の歪みを、
さらに鮮明に照らし出していた。
王宮の中で、最も居心地の悪い場所にいるのは――
おそらく、新しい婚約者である彼女だった。
平民出身の令嬢。
努力と情熱で王太子の心を掴んだとされる存在。
だが今、彼女は王宮の廊下を歩きながら、背中に突き刺さる視線を痛いほど感じていた。
(……皆、私を見ている)
直接的な敵意はない。
露骨な無礼もない。
だが、その分、余計に辛い。
評価されているのか。
測られているのか。
それとも――失望されているのか。
分からない。
ただひとつ確かなのは、
自分が“歓迎されていない”という感覚だけだった。
「……殿下」
執務室に入ると、王太子ユリウスが机に向かっていた。
書類の山。
以前より、明らかに増えている。
「どうしました?」
声をかけても、返事が遅れる。
「……ああ」
ようやく顔を上げた彼の表情は、疲労を隠しきれていなかった。
(……忙しそう)
以前は、もっと余裕があった。
彼女の話にも、笑顔で応じてくれた。
今は違う。
「殿下……最近、周囲の空気が……」
言葉を選びながら切り出す。
「皆、私に何か期待しているようで……
でも、何を求められているのか、分からなくて……」
ユリウスは、眉をひそめた。
「気にする必要はない」
即答だったが、
その声には、以前の自信がない。
「君は、君のままでいればいい」
優しい言葉のはずなのに、
彼女の胸には、なぜか不安が広がった。
(……“ままでいい”って、何?)
具体的に何をすればいいのか。
何をすれば評価されるのか。
それが、分からない。
王宮では、曖昧さは致命的だ。
社交の場でも、同じだった。
晩餐会で隣に座った貴族夫人が、微笑みながら言う。
「……最近、お忙しそうですわね」
それは、ただの世間話のようでいて、
探るような響きを含んでいた。
「ええ……少し」
「そうでしょうとも。
王太子妃殿下となる方ですもの」
その言葉に、胸が詰まる。
(……殿下、ではなく、“妃”として)
だが、続く言葉がなかった。
何を期待しているのか。
どう振る舞うべきか。
誰も教えてくれない。
――以前は、すべて整っていた。
誰と話すべきか。
どの話題を選ぶべきか。
どこで一歩引くべきか。
今は、その“空気”が存在しない。
夜、自室に戻り、彼女は椅子に腰を下ろした。
(……私、間違っているの?)
努力はしている。
学ぶ姿勢もある。
だが、それだけでは足りないことを、
肌で感じ始めていた。
王宮は、努力だけで受け入れてくれる場所ではない。
立場と、影響力と、
“場を読む力”が求められる。
それを――
以前は、誰かが代わりに読んでくれていた。
(……あの人)
ふと、脳裏をよぎる名前。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセル。
婚約破棄された相手。
本来なら、比較すべきではない存在。
だが、比較は勝手に行われる。
「……あの方なら、どうしていたのかしら」
呟いた瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。
自分は、
彼女の代わりではない。
彼女になろうとしているわけでもない。
それなのに――
王宮は、無言のうちに、
“同じ役割”を求めている。
その矛盾が、彼女を追い詰めていく。
翌日、王太子に再び声をかけた。
「……殿下。
私にも、何かお手伝いできることはありませんか?」
その問いは、切実だった。
だが、ユリウスは一瞬、言葉に詰まった。
「……今は、特に」
その沈黙が、すべてを物語っていた。
必要とされていない。
だが、いなければならない。
それは、最も不安定な立場だ。
一方、ヴァイセル公爵家では――
「……焦っていますわね」
リュシエンヌが、紅茶を飲みながら、静かに言った。
王宮から届く断片的な報告だけで、
状況は十分に読み取れる。
「役割を与えられないまま、
期待だけを背負わされる」
それが、どれほど辛いことか。
彼女は、よく知っていた。
だからこそ――
(……わたくしは、戻りません)
同情はあっても、
介入する理由はない。
誰かの未熟さを、
再び引き受けるつもりはない。
王宮ではこの日、
新しい婚約者の表情に、
はっきりとした“焦り”が浮かび始めた。
それは、
まだ小さな亀裂に過ぎない。
だが――
その亀裂こそが、
後に、取り返しのつかない崩れへと
繋がっていくことになる。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
今日もまた、
何もしていない。
そしてその“何もしない”という選択が、
王宮の歪みを、
さらに鮮明に照らし出していた。
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