『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

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第三十八話 残さない痕跡

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第三十八話 残さない痕跡

 王宮では、新しい書式の報告書が回り始めていた。項目は少なく、言い回しも簡潔だ。誰かの判断を仰ぐ余白を、あえて作らない構成になっている。決めた理由、実行した結果、次に見る指標。それだけで十分だった。

 ユリウスはその書式に目を通し、静かに頷く。細工はない。だが、逃げ道もない。残さない痕跡が、仕事を前へ押す。誰の名も大きく刻まれない代わりに、手順だけが残る。

「この形式で続けよう」

 短い一言で、流れは固まった。称賛も叱責もいらない。続くことが、評価だ。

 王宮の外では、新しい婚約者が、連絡の履歴を整理していた。返事を出したもの、出さなかったもの。どちらも同じ重さで並ぶ。彼女は履歴を閉じ、次の確認日だけを書き留める。余計な説明は足さない。痕跡を残しすぎると、次の判断を縛ると知っているからだ。

 午後、ヴァイセル公爵家の書斎で、リュシエンヌは古い覚え書きを束ねていた。使い切った紙は処分し、判断を要した箇所だけを短くまとめる。誰かに見せるためではない。自分が戻らないための印だ。

 侍女が控えめに尋ねる。

「お嬢様、こちらは保管なさいますか」

「いいえ。役目は終わりました」

 痕跡を残さない決断は、過去を否定しない。役目が終わったと認めるだけだ。

 夕方、王宮から届いた知らせは一行だった。処理完了、次回確認は来週。ユリウスはそれを受け取り、返事をしない。返さないことで、完了が完了のまま定着する。

 夜、新しい婚約者は灯りを落とし、今日の出来事を振り返らない。記録は残した。評価は残さない。続けばいい。

 リュシエンヌは窓を開け、外気を吸い込む。遠くの動きは見える。だが、足跡はここに残らない。残さない痕跡が、静かな自由を守っていた。

 名を刻まない。判断を縛らない。役目を終えたら、去る。その循環が、王宮にも屋敷にも、穏やかに根づいていた。
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