2 / 40
第二話 沈黙が意味するもの
しおりを挟む
第二話 沈黙が意味するもの
王城を出ると、夕刻の空は淡く曇っていた。
イザベル・ド・エノー公爵令嬢は、馬車に乗り込むまで一度も振り返らなかった。
背後にある王城は、彼女にとってもはや交渉の場ではない。
あの謁見室で、必要な確認はすべて終わっている。
――婚約は破棄された。
――理由は、真実の愛。
――そして王太子は、その意味を理解していない。
馬車が動き出す。
車輪の音が規則正しく石畳を叩く中、イザベルは膝の上に手を重ね、目を閉じた。
感情は、驚くほど静かだった。
怒りも、悲しみもない。
あるのは、冷えた思考だけ。
(最悪の理由を、最悪の形で選ばれましたね)
国家契約を、個人の恋愛で切り捨てる。
しかもそれを「高潔な決断」だと信じている。
王太子が愚かであることは、以前から分かっていた。
だが――ここまでとは。
エノー公爵邸に戻ると、すでに父であるエノー公爵が応接室で待っていた。
執務机には、まだ開かれていない封蝋付きの書簡がいくつも並んでいる。
「戻ったか、イザベル」
「はい、父上」
イザベルは無駄な前置きをしない。
父もまた、それを求めていなかった。
「婚約は、正式に破棄されました」
「理由は?」
「……真実の愛、とのことです」
一瞬、空気が張りつめる。
だがエノー公爵は、笑わなかった。眉をひそめることすらない。
「そうか」
それだけだ。
その反応に、イザベルは確信する。
父もまた、この事態をすでに理解している。
「殿下は、公爵家の力はもはや不要だと」
「ほう」
「王権は十分に強い、と」
エノー公爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほど。王太子は、王権と王位の違いを理解しておらぬらしい」
それは怒りではなく、評価だった。
「父上……」
「よい。お前は、何も間違っていない」
エノー公爵は立ち上がり、窓辺へ歩く。
広大な公爵領の方角を、静かに見据えた。
「婚約とは契約だ。
契約を破棄したのは王家の側だ」
その言葉には、断定しかなかった。
「つまり、こちらが動くのは正当だ」
イザベルは一礼する。
「私は、謁見の場でこう申し上げました。
『正当な権利を求めた対応を取らせていただく』と」
「よく言った」
エノー公爵は、初めて小さく頷いた。
「それでよい。脅しも抗議も不要だ。
我々はただ、契約に基づいて動く」
彼は机に並べられた書簡の一つを手に取る。
「これは北方の公爵からだ。
もう噂は届いている」
「……早いですね」
「王太子が公の場で“真実の愛”を口にしたからな。
愚かにも程がある」
イザベルは、ふと王城で見かけたルクレツィア・ボルジア男爵令嬢の微笑みを思い出す。
(彼女は、まだ自分が何をしてしまったのか分かっていない)
父は続ける。
「他の公爵家も動くだろう。
これはエノー家だけの問題ではない」
「王家が、契約を感情で切る前例を作った……」
「そうだ」
エノー公爵は、書簡を机に戻す。
「次は、どの家が切り捨てられるか分からぬ。
誰も、黙ってはいない」
沈黙が落ちた。
その沈黙は、恐怖ではない。
戦の前の、整然とした静けさだ。
「父上、私は――」
「お前は、何もしなくてよい」
即答だった。
「これは政治だ。
お前が前に出る必要はない」
その言葉に、イザベルは安堵したわけではない。
ただ、自分の役割を再確認しただけだ。
「王家は、廃嫡で済ませようとするかもしれません」
「だろうな」
「それでも……」
「それでは足りぬ」
エノー公爵は、淡々と言った。
「問題は王太子個人ではない。
“判断基準”そのものだ」
イザベルは、深く頷く。
王太子が退いたとしても、
同じ考えを持つ者が次に座れば、意味はない。
「教会は?」
「すでに司教が動いている」
エノー公爵は、冷静だった。
「婚約破棄に正当理由がない以上、教会は我々を支持する」
イザベルは、心の中で一つの結論に至る。
(……もう、止まらない)
これは復讐ではない。
感情でもない。
ただ、契約を破った側が、その結果を受け取るだけだ。
「イザベル」
父が、穏やかに呼ぶ。
「お前は、今日から自由だ」
「……はい」
「だが忘れるな。
自由とは、責任と対だ」
イザベルは微笑まなかった。
その言葉を、重く受け取る。
「承知しております」
夜が、公爵邸を包み込む。
その静けさの裏で、国はすでに動き始めていた。
王太子は、まだ知らない。
沈黙とは、許しではない。
それは――準備だということを。
王城を出ると、夕刻の空は淡く曇っていた。
イザベル・ド・エノー公爵令嬢は、馬車に乗り込むまで一度も振り返らなかった。
背後にある王城は、彼女にとってもはや交渉の場ではない。
あの謁見室で、必要な確認はすべて終わっている。
――婚約は破棄された。
――理由は、真実の愛。
――そして王太子は、その意味を理解していない。
馬車が動き出す。
車輪の音が規則正しく石畳を叩く中、イザベルは膝の上に手を重ね、目を閉じた。
感情は、驚くほど静かだった。
怒りも、悲しみもない。
あるのは、冷えた思考だけ。
(最悪の理由を、最悪の形で選ばれましたね)
国家契約を、個人の恋愛で切り捨てる。
しかもそれを「高潔な決断」だと信じている。
王太子が愚かであることは、以前から分かっていた。
だが――ここまでとは。
エノー公爵邸に戻ると、すでに父であるエノー公爵が応接室で待っていた。
執務机には、まだ開かれていない封蝋付きの書簡がいくつも並んでいる。
「戻ったか、イザベル」
「はい、父上」
イザベルは無駄な前置きをしない。
父もまた、それを求めていなかった。
「婚約は、正式に破棄されました」
「理由は?」
「……真実の愛、とのことです」
一瞬、空気が張りつめる。
だがエノー公爵は、笑わなかった。眉をひそめることすらない。
「そうか」
それだけだ。
その反応に、イザベルは確信する。
父もまた、この事態をすでに理解している。
「殿下は、公爵家の力はもはや不要だと」
「ほう」
「王権は十分に強い、と」
エノー公爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほど。王太子は、王権と王位の違いを理解しておらぬらしい」
それは怒りではなく、評価だった。
「父上……」
「よい。お前は、何も間違っていない」
エノー公爵は立ち上がり、窓辺へ歩く。
広大な公爵領の方角を、静かに見据えた。
「婚約とは契約だ。
契約を破棄したのは王家の側だ」
その言葉には、断定しかなかった。
「つまり、こちらが動くのは正当だ」
イザベルは一礼する。
「私は、謁見の場でこう申し上げました。
『正当な権利を求めた対応を取らせていただく』と」
「よく言った」
エノー公爵は、初めて小さく頷いた。
「それでよい。脅しも抗議も不要だ。
我々はただ、契約に基づいて動く」
彼は机に並べられた書簡の一つを手に取る。
「これは北方の公爵からだ。
もう噂は届いている」
「……早いですね」
「王太子が公の場で“真実の愛”を口にしたからな。
愚かにも程がある」
イザベルは、ふと王城で見かけたルクレツィア・ボルジア男爵令嬢の微笑みを思い出す。
(彼女は、まだ自分が何をしてしまったのか分かっていない)
父は続ける。
「他の公爵家も動くだろう。
これはエノー家だけの問題ではない」
「王家が、契約を感情で切る前例を作った……」
「そうだ」
エノー公爵は、書簡を机に戻す。
「次は、どの家が切り捨てられるか分からぬ。
誰も、黙ってはいない」
沈黙が落ちた。
その沈黙は、恐怖ではない。
戦の前の、整然とした静けさだ。
「父上、私は――」
「お前は、何もしなくてよい」
即答だった。
「これは政治だ。
お前が前に出る必要はない」
その言葉に、イザベルは安堵したわけではない。
ただ、自分の役割を再確認しただけだ。
「王家は、廃嫡で済ませようとするかもしれません」
「だろうな」
「それでも……」
「それでは足りぬ」
エノー公爵は、淡々と言った。
「問題は王太子個人ではない。
“判断基準”そのものだ」
イザベルは、深く頷く。
王太子が退いたとしても、
同じ考えを持つ者が次に座れば、意味はない。
「教会は?」
「すでに司教が動いている」
エノー公爵は、冷静だった。
「婚約破棄に正当理由がない以上、教会は我々を支持する」
イザベルは、心の中で一つの結論に至る。
(……もう、止まらない)
これは復讐ではない。
感情でもない。
ただ、契約を破った側が、その結果を受け取るだけだ。
「イザベル」
父が、穏やかに呼ぶ。
「お前は、今日から自由だ」
「……はい」
「だが忘れるな。
自由とは、責任と対だ」
イザベルは微笑まなかった。
その言葉を、重く受け取る。
「承知しております」
夜が、公爵邸を包み込む。
その静けさの裏で、国はすでに動き始めていた。
王太子は、まだ知らない。
沈黙とは、許しではない。
それは――準備だということを。
206
あなたにおすすめの小説
王太子殿下から婚約破棄されたのは冷たい私のせいですか?
ねーさん
恋愛
公爵令嬢であるアリシアは王太子殿下と婚約してから十年、王太子妃教育に勤しんで来た。
なのに王太子殿下は男爵令嬢とイチャイチャ…諫めるアリシアを悪者扱い。「アリシア様は殿下に冷たい」なんて男爵令嬢に言われ、結果、婚約は破棄。
王太子妃になるため自由な時間もなく頑張って来たのに、私は駒じゃありません!
婚約破棄される前に、帰らせていただきます!
パリパリかぷちーの
恋愛
ある日、マリス王国の侯爵令嬢クロナは、王子が男爵令嬢リリィと密会し、自分を「可愛げのない女」と罵り、卒業パーティーで「婚約破棄」を言い渡そうと画策している現場を目撃してしまう。
普通なら嘆き悲しむ場面だが、クロナの反応は違った。
【完結】もう結構ですわ!
綾雅(りょうが)要らない悪役令嬢
恋愛
どこぞの物語のように、夜会で婚約破棄を告げられる。結構ですわ、お受けしますと返答し、私シャルリーヌ・リン・ル・フォールは微笑み返した。
愚かな王子を擁するヴァロワ王家は、あっという間に追い詰められていく。逆に、ル・フォール公国は独立し、豊かさを享受し始めた。シャルリーヌは、豊かな国と愛する人、両方を手に入れられるのか!
ハッピーエンド確定
【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/11/29……完結
2024/09/12……小説家になろう 異世界日間連載 7位 恋愛日間連載 11位
2024/09/12……エブリスタ、恋愛ファンタジー 1位
2024/09/12……カクヨム恋愛日間 4位、週間 65位
2024/09/12……アルファポリス、女性向けHOT 42位
2024/09/11……連載開始
婚約破棄?ああ、どうぞお構いなく。
パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢アミュレットは、その完璧な美貌とは裏腹に、何事にも感情を揺らさず「はぁ、左様ですか」で済ませてしまう『塩対応』の令嬢。
ある夜会で、婚約者であるエリアス王子から一方的に婚約破棄を突きつけられるも、彼女は全く動じず、むしろ「面倒な義務からの解放」と清々していた。
婚約辞退いたします。だってこの国、沈みますもの
鍛高譚
恋愛
「婚約はお断りいたします――この国は近い将来、崩壊しますので」
そう言い放ったのは、社交界でも目立たない子爵令嬢、マリン・アクアリウム。
ある日、とある舞踏会に突如現れた王太子ガイア殿下。
誰もが驚く中、なんと彼はマリンに婚約を申し出る。
周囲は騒然。「子爵令嬢が王太子妃!?」「断る理由などないはず!」
――だが、彼女は断った。「この国は、もうすぐ滅びます」――と。
そんな不吉な言葉を口にしたことで、彼女は“狂言癖のある嘘つき令嬢”と噂され、
家族にさえ見放され、ついには国外追放の身に。
だが、彼女の予言は本物だった――
数年後、王国に未曾有の大災厄が迫る。
国土が崩れ、海に沈む都市。人々が絶望する中、思い出されるのは、
あの舞踏会でただひとり“滅び”を告げた少女の名。
「彼女なら、この国を救えるかもしれない……」
皮肉にも“追放令嬢”マリンは、再び王都に呼び戻され、
滅びゆく国で最後の希望として担ぎ上げられる。
信じてもらえなかった過去。
それでも人々の命を守ろうと奔走するマリン。
そして、王子ガイアが差し伸べた、あの日と変わらぬ手。
――たとえ国が滅んでも、あなたとともに歩んでいきたい。
悪役令嬢は自称親友の令嬢に婚約者を取られ、予定どおり無事に婚約破棄されることに成功しましたが、そのあとのことは考えてませんでした
みゅー
恋愛
婚約者のエーリクと共に招待された舞踏会、公の場に二人で参加するのは初めてだったオルヘルスは、緊張しながらその場へ臨んだ。
会場に入ると前方にいた幼馴染みのアリネアと目が合った。すると、彼女は突然泣き出しそんな彼女にあろうことか婚約者のエーリクが駆け寄る。
そんな二人に注目が集まるなか、エーリクは突然オルヘルスに婚約破棄を言い渡す……。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる