1 / 40
第一話 婚約とは、契約である
しおりを挟む
第一話 婚約とは、契約である
王城の回廊は、今日も静かだった。
磨き上げられた白大理石の床に、外光が柔らかく反射している。その中を歩きながら、イザベル・ド・エノー公爵令嬢は、歩調を一分の狂いもなく保っていた。
ここは王太子との謁見の場へと続く道だ。
そして今日の話題は、すでに察しがついている。
――婚約の件。
イザベルにとって、それは感情の問題ではなかった。
王太子マクシミリアンとの婚約は、幼少のころから定められた国家条約であり、エノー公爵家が持つ軍事力と資金力、そして王家の正統性を結びつけるための、極めて合理的な選択だった。
愛情など、初めから前提にない。
それでも、王太子が最近になって見せる変化には、さすがのイザベルも小さな違和感を覚えていた。
廊下の先で、数人の貴族令嬢たちが囁き合っている。
その中心にいるのは、ルクレツィア・ボルジア男爵令嬢だった。
柔らかな微笑み。
控えめな仕草。
誰かが話しかければ、必ず一瞬遅れて視線を伏せ、恥じらうように頷く。
――よくできた外面だ。
イザベルは足を止めない。
ルクレツィアが、こちらに気づいて一瞬だけ視線を向けた。だが、その瞳には、敬意ではなく、奇妙な余裕が宿っている。
勝者のそれだ。
胸の奥で、何かが静かに整列する感覚があった。
感情ではない。状況整理だ。
(……なるほど)
イザベルは理解した。
王太子の変化の理由を。
謁見室の扉が開く。
「イザベル・ド・エノー、公爵令嬢。入室を許可する」
一歩、足を踏み入れる。
そこには王太子マクシミリアンが立っていた。以前よりも、どこか高揚した表情を浮かべている。
「来てくれたか、イザベル」
「お招きいただき、光栄に存じます。殿下」
形式通りの挨拶。
マクシミリアンは、それを少しだけ煩わしそうに受け流した。
「堅いな。今日はもっと率直に話そう」
その言葉に、イザベルは何も返さない。
率直さを求める者ほど、率直でない結論を持ち出すことを、彼女は知っていた。
マクシミリアンは、一歩前に出る。
「私は――真実の愛を知った」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルの中で、最後の点と点が結ばれた。
真実の愛。
この国で、その言葉が何度、どれほどの悲劇を生んできたか。
そして、どれほど軽薄な者ほど、その言葉を好むか。
「殿下」
イザベルは、静かに口を開いた。
「それは、婚約についてのお話でしょうか」
マクシミリアンは頷く。
「そうだ。私は、愛なき婚姻を続けることは、王となる者として不誠実だと考えるようになった」
彼は、自分の言葉に酔っていた。
それが、国を揺るがす宣言であることにも気づかずに。
「王家は、もはやエノー公爵家の力に頼らずとも、国を導ける。婚姻による同盟は、不要だ」
はっきりとした断言。
その瞬間、イザベルは確信した。
――この人は、何も分かっていない。
公爵家を、同盟者ではなく資源として見ている。
婚約を、契約ではなく所有権だと勘違いしている。
イザベルは、ゆっくりと息を吸った。
「……婚約破棄、ですか」
「そうだ」
即答だった。
イザベルは、王太子の目をまっすぐに見据える。
「その意味を、殿下はご理解のうえでおっしゃっているのでしょうか」
一瞬、空気が止まった。
だがマクシミリアンは笑った。
「大げさだな。婚約とは、あくまで取り決めだろう? 王家が不要と判断すれば、解消することもできる」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルの中で、すべてが終わった。
説得の余地はない。
理解を期待するのも、時間の無駄だ。
彼女は、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声音に、怒りも悲しみもない。
ただ、事務的な受諾。
マクシミリアンは、それを勝利だと勘違いしたようだった。
「分かってくれて嬉しい。君ほどの公爵令嬢なら、理性的な判断ができると思っていた」
イザベルは顔を上げる。
「それでは公爵は、正当な権利を求めた対応を取らせていただきます」
「……は?」
王太子が、初めて言葉に詰まった。
だがイザベルは、それ以上何も説明しなかった。
説明する義務は、すでに王太子自身が放棄している。
一礼。
「失礼いたします、殿下」
踵を返し、謁見室を後にする。
背後で、マクシミリアンが何かを言いかけたが、その声は届かなかった。
回廊を歩きながら、イザベルは思う。
(これは、私個人の問題ではない)
これは国家の問題だ。
契約を軽んじた者が、どのような結末を迎えるのか――。
それを、彼女が教える必要はない。
エノー公爵家が、正当に、淡々と、示すだけだ。
静かな足音が、王城に遠ざかっていった。
王城の回廊は、今日も静かだった。
磨き上げられた白大理石の床に、外光が柔らかく反射している。その中を歩きながら、イザベル・ド・エノー公爵令嬢は、歩調を一分の狂いもなく保っていた。
ここは王太子との謁見の場へと続く道だ。
そして今日の話題は、すでに察しがついている。
――婚約の件。
イザベルにとって、それは感情の問題ではなかった。
王太子マクシミリアンとの婚約は、幼少のころから定められた国家条約であり、エノー公爵家が持つ軍事力と資金力、そして王家の正統性を結びつけるための、極めて合理的な選択だった。
愛情など、初めから前提にない。
それでも、王太子が最近になって見せる変化には、さすがのイザベルも小さな違和感を覚えていた。
廊下の先で、数人の貴族令嬢たちが囁き合っている。
その中心にいるのは、ルクレツィア・ボルジア男爵令嬢だった。
柔らかな微笑み。
控えめな仕草。
誰かが話しかければ、必ず一瞬遅れて視線を伏せ、恥じらうように頷く。
――よくできた外面だ。
イザベルは足を止めない。
ルクレツィアが、こちらに気づいて一瞬だけ視線を向けた。だが、その瞳には、敬意ではなく、奇妙な余裕が宿っている。
勝者のそれだ。
胸の奥で、何かが静かに整列する感覚があった。
感情ではない。状況整理だ。
(……なるほど)
イザベルは理解した。
王太子の変化の理由を。
謁見室の扉が開く。
「イザベル・ド・エノー、公爵令嬢。入室を許可する」
一歩、足を踏み入れる。
そこには王太子マクシミリアンが立っていた。以前よりも、どこか高揚した表情を浮かべている。
「来てくれたか、イザベル」
「お招きいただき、光栄に存じます。殿下」
形式通りの挨拶。
マクシミリアンは、それを少しだけ煩わしそうに受け流した。
「堅いな。今日はもっと率直に話そう」
その言葉に、イザベルは何も返さない。
率直さを求める者ほど、率直でない結論を持ち出すことを、彼女は知っていた。
マクシミリアンは、一歩前に出る。
「私は――真実の愛を知った」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルの中で、最後の点と点が結ばれた。
真実の愛。
この国で、その言葉が何度、どれほどの悲劇を生んできたか。
そして、どれほど軽薄な者ほど、その言葉を好むか。
「殿下」
イザベルは、静かに口を開いた。
「それは、婚約についてのお話でしょうか」
マクシミリアンは頷く。
「そうだ。私は、愛なき婚姻を続けることは、王となる者として不誠実だと考えるようになった」
彼は、自分の言葉に酔っていた。
それが、国を揺るがす宣言であることにも気づかずに。
「王家は、もはやエノー公爵家の力に頼らずとも、国を導ける。婚姻による同盟は、不要だ」
はっきりとした断言。
その瞬間、イザベルは確信した。
――この人は、何も分かっていない。
公爵家を、同盟者ではなく資源として見ている。
婚約を、契約ではなく所有権だと勘違いしている。
イザベルは、ゆっくりと息を吸った。
「……婚約破棄、ですか」
「そうだ」
即答だった。
イザベルは、王太子の目をまっすぐに見据える。
「その意味を、殿下はご理解のうえでおっしゃっているのでしょうか」
一瞬、空気が止まった。
だがマクシミリアンは笑った。
「大げさだな。婚約とは、あくまで取り決めだろう? 王家が不要と判断すれば、解消することもできる」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルの中で、すべてが終わった。
説得の余地はない。
理解を期待するのも、時間の無駄だ。
彼女は、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声音に、怒りも悲しみもない。
ただ、事務的な受諾。
マクシミリアンは、それを勝利だと勘違いしたようだった。
「分かってくれて嬉しい。君ほどの公爵令嬢なら、理性的な判断ができると思っていた」
イザベルは顔を上げる。
「それでは公爵は、正当な権利を求めた対応を取らせていただきます」
「……は?」
王太子が、初めて言葉に詰まった。
だがイザベルは、それ以上何も説明しなかった。
説明する義務は、すでに王太子自身が放棄している。
一礼。
「失礼いたします、殿下」
踵を返し、謁見室を後にする。
背後で、マクシミリアンが何かを言いかけたが、その声は届かなかった。
回廊を歩きながら、イザベルは思う。
(これは、私個人の問題ではない)
これは国家の問題だ。
契約を軽んじた者が、どのような結末を迎えるのか――。
それを、彼女が教える必要はない。
エノー公爵家が、正当に、淡々と、示すだけだ。
静かな足音が、王城に遠ざかっていった。
1
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる