『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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17話 焦らないという選択

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17話 焦らないという選択

 朝の空気が、少し湿っていた。

 ファーファは目を覚ますと、天井を見上げたまま動かなかった。体は起きているが、起き上がる理由が見当たらない。急ぐ必要も、予定も、約束もない。

 ――今日は、どんな日だろう。

 考えかけて、やめる。
 どんな日であっても、対応は同じだ。

 しばらくして起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、朝の光が柔らかく差し込んだ。地面は少し湿っているが、足元は安定している。

 箱は、置かれていた。

 いつも通りの場所。
 いつも通りの大きさ。

「……あるわね」

 それを確認しただけで、胸の内に何かが生まれるわけではない。安心でも、喜びでもない。事実を受け取っただけだ。

 箱を中に運び、蓋を開ける。
 保存食、乾燥野菜、油、布。前回よりも、少しだけ内容が整理されている。無駄が削られ、重複がない。

 ――事務的。

 それが、心地いい。

 必要な分だけ取り出し、棚に置く。
 残りは、そのまま。

 数は数えない。
 減り具合も確認しない。

 足りなくなるまで、足りている。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。湯気が立ち上り、視界が一瞬だけ曇る。椅子に腰掛け、カップを両手で包む。

 王都にいた頃、焦りは常に隣にあった。
 遅れないか。
 取り残されないか。
 評価が下がらないか。

 焦らなければならない理由が、いつも誰かによって提示されていた。

 ここには、それがない。

 焦らなくても、何も奪われない。
 焦らないからといって、責められない。

 午前中、本を読む。
 数頁進んで、止まる。

 外を見る。
 雲が流れている。

 再び、本に戻る。

 その繰り返し。

 昼、簡単な食事を取る。
 味付けは控えめ。量は、いつも通り。

 食後、片付けをしてから、しばらく何もしない。
 椅子に座り、手を膝に置き、呼吸を整える。

 ――何もしていない時間が、長い。

 だが、それを埋めようとは思わない。
 埋める必要がないからだ。

 午後、外に出る。
 家の周囲を一回りする。

 地面の湿り具合、草の伸び方、木の影。
 どれも、昨日と大きく変わらない。

 変わらないことを確認して、戻る。

 夕方、空気が冷たくなる。
 火を入れ、室内を整える。

 薪は足りている。
 確認しなくても、分かる。

 王都では今頃、誰かが焦っている。
 期限が近い。
 結果が出ない。
 比較される。

 だが、その焦りは、ここには届かない。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、何も起きなかった。
 焦る理由も、生まれなかった。

 ファーファ・ノクティスは、
 焦らないという選択を、
 毎日、無意識のうちに繰り返している。

 それは勇気でも、抵抗でもない。
 ただ、そうする必要がない生活が、
 ここにあるだけだった。

 静かな呼吸の中で、
 彼女は今日も、世界から一歩離れたまま、
 穏やかに眠りについた。
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