『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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18話 戻らない理由

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18話 戻らない理由

 朝、ファーファは夢を見なかった。

 それは、ここに来てから増えた変化のひとつだ。王都にいた頃は、意味のない夢をよく見た。誰かに呼ばれ、誰かに責められ、何かを間に合わせようとして走る夢。目が覚めた瞬間から、疲れていた。

 今は違う。

 目を開けると、ただ朝だった。

 起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れる。山の朝は、相変わらず無言だ。歓迎も、要求もない。

 箱は、置かれていた。

 いつも通りの位置。
 いつも通りの大きさ。

 それを確認して、箱を中に運ぶ。
 中身を開ける必要は、まだない。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。椅子に腰掛け、湯気の向こうで光が揺れるのを眺める。今日の予定は、決めない。決めなくても、問題は起きない。

 ――戻る理由は、あるだろうか。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 誰かが聞けば、当然の疑問だろう。
 王都に戻らないのか。
 貴族に復帰しないのか。
 やり直さないのか。

 だが、その問いは、ここでは意味を持たない。

 戻る理由とは、失ったものがあるときに生まれるものだ。
 ここでの生活は、何も失っていない。

 むしろ、取り戻したものが多い。

 静けさ。
 余白。
 判断しなくていい時間。

 午前中、ファーファは本を読んだ。途中で閉じ、窓の外を見る。風が葉を揺らし、影が移る。それだけで、時間は十分に流れる。

 王都では、きっと今も議論が続いている。
 戻すべきか。
 放置すべきか。
 価値があったのか、なかったのか。

 議論は、結論を出すために行われる。
 だが、ここには結論を求める者がいない。

 昼、簡単な食事を取る。
 味は、いつも通り。
 満足も、不満もない。

 午後、外に出る。
 家の周囲を一回りし、山の様子を見る。

 ここに住み続ける覚悟があるか、と問われたら、答えは簡単だ。
 覚悟は要らない。

 住んでいる。
 それだけだ。

 夕方、箱を開ける。
 保存食、油、乾燥野菜、布。前回とほとんど変わらないが、ひとつだけ違いがあった。紙片が一枚、挟まっている。

 内容は、短い。

 ――手続き上、問題なし。

 それだけ。

 署名も、日付もない。
 誰が書いたか、分かる必要もない。

「……相変わらずね」

 ファーファは紙片を折り、箱に戻した。
 説明も、励ましも、引き留めもない。

 それが、正しい。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
 静けさは、相変わらず濃い。

 王都では今頃、誰かが「戻らない理由」を探しているだろう。
 悲劇か。
 誇りか。
 復讐か。

 だが、理由は、そんなに大げさなものではない。

 戻らないのは、
 戻らなくていいからだ。

 ファーファ・ノクティスは、その単純な事実を、誰にも説明することなく、胸の内に置いたまま、静かに目を閉じた。

 ここには、戻らない理由を、証明する必要がない。

 それだけで、十分だった。
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