『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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20話 何もしない日常の価値

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20話 何もしない日常の価値

 朝、目を覚ました瞬間、ファーファは自分がどこにいるのかを確認しなかった。

 確認する必要がないからだ。

 天井は変わらず、空気の温度も昨日と大差ない。山の朝は、毎回ほぼ同じ条件で始まる。それは退屈ではなく、信頼に近いものだった。

 ゆっくりと体を起こし、寝台から降りる。床板は冷たすぎず、足裏に違和感はない。王都の屋敷では、朝の最初の一歩で「今日の機嫌」を測られたものだ。音を立てれば不興を買い、静かすぎれば存在感がないと嫌味を言われる。

 ここでは、床がどう感じるかだけでいい。

 外套を羽織り、扉を開ける。空は薄曇りで、直射日光はない。風も穏やかだ。箱は、置かれていた。いつもと同じ場所、同じ向き、同じ大きさ。

 それを見て、胸が軽くなるわけでもない。
 だが、重くもならない。

 それが重要だった。

 箱を中に運び、開ける。中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。ごくわずかに、嗜好品として乾燥果実が入っている。以前よりも量は少ないが、過不足はない。

「……増やさない判断、ね」

 それが誰の判断か、ファーファは考えなかった。考える必要がないからだ。契約に基づく定期搬送。物資の購入費も輸送費も、すでに領地売却時の資金から切り分けられている。辺境伯は、それを機械的に処理しているだけ。

 好意でも、善意でもない。

 それが、信頼できる。

 必要な分だけ棚に置き、残りはそのまま箱に戻す。整頓しすぎない。管理しすぎない。管理は、意識した瞬間から労働になる。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は少し薄めにした。理由はない。気分というほどのものでもない。ただ、そうした。

 椅子に腰掛け、窓の外を見る。山は静かだ。動いているのは、風と雲と、わずかな鳥だけ。ここには「進捗」がない。

 王都では、日常ですら成果を求められた。
 朝起きた時点で、昨日より前進しているかを問われる。
 立ち止まることは、後退と同義だった。

 ここでは、立ち止まることすら意識しない。

 午前中、本を読む。途中で止め、指を挟んで閉じる。読了しなくても、本は逃げない。知識も、評価も、ここでは価値を持たない。

 昼、簡単な食事を取る。乾燥野菜のスープと、保存食のパン。味は淡泊だが、不満はない。不満を感じるほど、期待していない。

 食後、しばらく椅子に座ったまま動かない。
 何も生産していない時間。
 何も決断していない時間。

 それでも、時間は過ぎる。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りする。点検ではない。異変を探すわけでもない。ただ、見る。変わらないことを確認するだけだ。

 ここでの生活は、改善を目的としていない。
 維持ですらない。
 「続いている」だけだ。

 王都にいた頃、よく言われた言葉がある。
 ――何もしないのは、価値がない。

 だが、ここに来て分かった。

 何もしないからこそ、壊れないものがある。

 夕方、空気が少し冷える。火を入れ、室内を整える。薪は足りている。確認はしない。足りなくなったら、その時に分かる。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、何も起きなかった。
 何も成し遂げなかった。
 誰にも評価されなかった。

 それでも、疲労はない。

 ファーファ・ノクティスは、
 何もしない日常にも、十分な価値があると、
 誰に示すでもなく、証明するでもなく、
 ただ、生き方として受け入れていた。

 世界は、彼女に何も求めていない。
 だからこそ、彼女も、世界に何も差し出さない。

 その静かな均衡の中で、
 彼女は今日も、穏やかに眠りについた。
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